−１−

「なあ…誰かスキーやる奴いないか？」
結露した窓ガラスが外の寒さを物語る昼下がり。
それぞれ好みのカップを手に、のんびりとリビングでくつろいでいた。
暖炉―――せっかくあるんだもの。冬はやっぱり火を入れなきゃね！　というフランソワーズにけしかけられた男どもがようやく使えるようにした―――の前の、毛足の長い敷物の上で、イワンをからかっていたジョーとグレートが同時に顔を上げる。
「スキー？」
「ああ、ずっとやってなかったんだが…久しぶりに滑りたくなってな。誰か一緒に行かないか？」

｢おっ？！　オレやるッ！　最近身体がナマって仕方なかったんだ。そうか、スキーか…」
すぐさま反応したのはジェット・リンク。何かフランソワーズを怒らせることでもしたのだろう、エプロンをつけて、彼女の助手よろしく皿を片付けたりテーブルを拭いたりしている。もちろん相変わらずへらず口を叩いては、フランソワーズに睨まれているが、本人は一向に気にしていない。

「俺は〜…パスだなあ〜。何だってわざわざクソ寒いところに行かなきゃなんないんだよ。あったか〜い部屋で黒ビールでも飲んでた方が百倍マシさぁ」
物好きな奴ら…と肩すくめてグレートが言う。
「けっ！　だから年寄りは嫌なんだよ。いいさ、家にこもって酒と○○○○でもしてな！！」
「ジェット！！」
リビングとキッチンの仕切りに立ったフランソワーズがものすごい形相で睨みつけている。
思わず首をすくめたジェットだったが、
「なあ、ジョーも行くよな」
「え？　あ、ああ…」
腕を組んでジェットを睨んでいるフランソワーズを、コワイなぁ…と気に掛けながら、ジョーは曖昧に答えた。
「だけど僕、一度しかやったことないんだよ。それも学校の体験教室かなんかでさ、さぼってばっかりだったし…」
「へーきへーき！　オマエならすぐ滑れるようになるって！　な？アルベルト？」
「たぶんな」
そもそもの提案者が、さほど気のない返事を返す。
「よし、決まり！　フランソワーズも行くだろ？」
すでにジェットのことは諦めて、ひとりでテキパキと辺りを片付けていたフランソワーズが、驚いたように顔を上げた。
「え？　い、いいわよ、私は…。イワンの世話もあるし」

それまで何だか面白そうにみんなの話を聞いていたイワンが、おもむろに言った。
《ボクハダイジョウブダヨ。ぐれーとモイルシネ》
げ？！　と顔をしかめたグレートを嬉しそうに見て、そーだそーだとジェットがけしかける。

「でも…私、スキーってやったことないのよ…」
え…？　と一同思わず彼女の顔を見つめた。
「一度もないのか？」
意外そうにアルベルトが尋ねる。
「ええ…。小さい頃からバレエを習ってたでしょう？　足を痛めちゃいけないって、周りから止められてたから…」

へえ〜、大変なんだね、バレエやるのも。
ジョーやジェットは目を丸くしたが、アルベルトは軽く眉をひそめると
「ふん…面白くねえな。全然興味がなかったのか？」
「ううん…。冬の休暇が近づくと、友達はスキーの話で盛り上がってて…。仕方ないと分かってたけど、やっぱり残念だったな…」
そうか、とつぶやくと、アルベルトは片頬だけで笑って言った。
「よし、決まりだな。じゃあ行くのはジョーとジェットとオレ、にフランソワーズ」
「えっ、え…？　ちょ、ちょっと待って！！」
「よぉ〜し！　そうと決まったら準備準備……」
ボーゼンとするフランソワーズを残し、足取り軽くリビングを後にする男たち。
そばではイワンとグレートが、面白そうに彼女を眺めていた。



−２−

数日後、まだ暗い中を、雪山目指して彼らの乗った車は走っていた。
行く先は蓼科。ジェットが選んだ。
まあ彼のことだから、ガイドブックか何かでえいやっ！と選んだのだろうが、アルベルトはとりあえず滑れればどこでもいいといったスタンスだったし、ジョーとフランソワーズにいたっては、どこがどんなスキー場なのかも分からない。
誰からも異論は出ることなく、ごく和やかに車は中央道を走り続けて、あたりが白み始める頃に一般道に降りた。

出発の時には大騒ぎしていたジェットだったが、その反動で今は後部座席で夢の中。
「もう…！　ジェットの奴、重いんだよ！」
隣に座っているジョーが、もたれかかってくるジェットを押し戻して、何度目かの悪態をつく。
「ふふっ。張り切って昨夜は寝てないみたいだから、疲れちゃったのね」
「ガキみたいな奴だな…」
さっきジョーと交代したアルベルトが、凍った路面に注意を払いながらぼそりと呟く。
「ホントね…」
くすくす笑いながら、フランソワーズはポットに入れてきたコーヒーをアルベルトとジョーに勧める。
「ありがとう」
楽しそうな彼女を見て、ジョーはほっとしていた。
…無理やり誘ったようで気になっていたけど…。

「あ！　ねえ、見て！　素敵ね…日本の昔のお家？　屋根がこんもりしてて可愛いわ」
「ああ、萱葺き屋根っていうんだよ。まだこのへんには残ってるんだな…」
「ジョーが子供の頃はああいうお家ばかりだったの？」
え？　違うよ…！　思わず笑ったジョーとアルベルトを、フランソワーズはちょっと赤くなってにらむ。
「そんなに笑うことないじゃない…アルベルトまで。まさかとは思ったけど、聞いてみただけ」
口を尖らせて前を向くフランソワーズをちらと見たアルベルトが、この男らしからぬ、何の翳りもない、優しい目をしていたことに、バックミラーを見ていたジョーは気づいた。ハッとしたが、それは一瞬のことで、すぐにまた例の皮肉な笑みを浮かべると言った。
「さて、もうそろそろかな。車も多くなってきたし…結構混んでるかも知れないぞ。ジェットを起こせよ。ウイークデーだってのにこんなに混んでるスキー場を選びやがって…」


＊

｢まず、板とブーツを借りなきゃな」
アルベルトが後に続く３人を振り返る。黒の上下のスキーウェアが彼の銀髪とよく合っていた。
「そうね。なんだかドキドキしてきた…」
「僕も…。板の付け方も覚えてないよ。だいじょうぶかなぁ」
ジョーとフランソワーズは物珍しげに、朝日がまぶしいゲレンデを見まわしている。
やれやれとアルベルトは肩をすくめ、早くも滑り出した若者たちをじっと見ているジェットに、早く来い！と声をかける。
「……どうせなら、アレの方がカッコいいな」
ジェットの視線の先には、雪を蹴散らしてかッ飛んで来る、スノーボーダー。
「…オマエね、久しぶりなんだろ！　いきなり新しいのに挑戦したってケガするのがオチだぞ。とりあえず慣れた方で我慢しとけ！」
「同じだよ」
「何？」
「オレ、スキーもスノボもやったことねーからな。どっちから始めたってカンケーねえだろ」
「！！」
「ジェット…君、初めてなんて一言も…」
「やったことあるなんて言ってねえよ。大体スラム育ちでなんでスキーが出来るよ。スケートならともかく…」
「スケート？　なんで？？」
「ふふん、それはな・・・」
「だああ〜っ！！　もういい！！　テメエは好きにしろ！」
ジェットとジョーの会話を途中でぶち切り、アルベルトは頭を抱えた。
…こいつらみんな面倒見なきゃいけねえのか…。



−３−

だがそんなアルベルトの杞憂をよそに、ジェットもジョーもあっという間にコツを覚えて、もう上級コースを滑っている。
やはりどちらも運動神経が抜群にいい。
それが天性のものなのか、それともサイボーグとしての資質なのかは分からなかったが、とりあえず彼はほっとした。
問題は……

コイツだ。
目の前でひっくり返っている約一名に自分のポールをつかませ、よいしょと立ち上がらせる。
「あ…ありがとう…」
息を切らせて礼をいい、彼女は恥ずかしそうに彼を見て微笑んだ。

上も下も真っ白なウェアと、同じ色のニットの帽子。そこから踊るように広がる金色の髪。
冷気にわずかに染まった、抜けるような白い肌と、雪を映して輝く蒼の瞳。

…そのまま融けていってしまいそうだ…雪の精みたいだな…

そう、思ったのは最初だけ。
今はため息とともに、その雪まみれの姿に同じ言葉を繰り返す。
「だから…なんでそこで転んじまうんだ？　そんなのスピード出てるうちに入らないぞ！　見てみな、アレを」
二人の脇をかすめ、ピューンと直滑降で滑っていく５歳くらいの男の子。
不安定な姿勢にも関わらず、そのまますごいスピードで下まで降りていく。
「……」
「な！　平気なんだよ、このくらいの斜面じゃ。もうちょっと思い切り良く滑ってみろ！」
「……はい」
「じゃあ、もう一度！」
「あの…アルベルト？」
ちょっぴり上目遣いに彼を見て、フランソワーズはにっこり笑った。
「何だ」
「私…少し一人で練習するから、あなたも滑ってきて。私と一緒じゃちっとも滑れないでしょう？」
「……」
顎を引いて彼女を見つめたアルベルトだったが、やがて、そうだな、とうなずくと、
「さぼらないで練習しろよ！」
一言残してタン！と雪を踏むと、キラキラと雪を散らしながら滑り出ていった。

ふぅ…と肩を落とし、フランソワーズは羨望を込めてその美しく力強い後姿を見送った。

…こんなに難しいなんて思わなかったわ。大体…緊張するのよね、彼がずっと後ろについてると。

いかにもドイツ人らしく、きっちりと基礎を教えようとするアルベルトは、ともすれば口うるさく、しかも結構気が短かった。

……ちょっとカフェで休憩して気分を変えよう…。
さぼるなと言ったアルベルトに、”ごめんね”と心の中で軽く舌を出しておいて、さて、と周りを見渡す。
こっそり眼と耳を使うと、隣のコースを滑っている二人を見つけた。
濃紺のジャケットに白いパンツのジョーと、同じ白のパンツの上に真っ赤なジャケットが目立つジェットが、明るい笑い声を上げて競い合うように滑っている。

…楽しそう…これじゃあ、私のことなんて忘れてるわね……
これは、とりあえず自力で下まで降りなければ。
戦いの時もかくやという悲壮な決意をにじませ、フランソワーズはそろそろと滑り出した。


＊

「よお、どうだ？　フランソワーズは。少しは滑れるようになったか？」
頂上のゴンドラを降りたところで、腰を下ろして休んでいたジェットとジョーに近づいたアルベルトが肩をすくめた。
「ありゃダメだ。最初ッから怖がっちまってるからな」
「ふ〜ん…」
「けど意外だったよな、アイツ、スキー苦手なんて。何でも器用にこなしちまうタイプかと思ってたが……」
ジェットが愉快そうに言う。
（オレもだよ…）
アルベルトが苦笑いで応える。
「しっかし…アイツにも怖いものがあったとはな…」
ジェットの言葉に、男たちは、ハハハッ…と無責任に笑った。
「で、今彼女は？　一人？」
最初に笑いを引っ込めたジョーがアルベルトを見る。
「ああ、個人練習中。オレも疲れたよ…大体ヒトに物を教えるなんざ、苦手なんだ」
ちょっと気遣わしげな顔をしたジョーにはお構いなく、ジェットが、う〜ん、とひとつ伸びをすると陽気な声を上げた。
「よーし、じゃあもうひと勝負だ、ジョー！　オマエも行くか？アルベルト。麓までノン・ストップ・バトル！」
板を履いていたアルベルトは、
「フン…いい度胸だな。今日始めたばかりのくせしやがって、オレと勝負だと？」
にやりと笑ったが、
「オレはいいよ。もうちょっとここで滑ってる」
「ちぇっ！　ブチ負かしてやろうと思ったのによ。まあいいや…ジョー、ほら行くぞ！」
は〜っとため息をついてジョーが立ち上がる。
「スノボとスキーじゃ、何度やったって結果は同じだよ」
「うるせー。今度こそぶっちぎってやるからな！　ｒｅａｄｙ…Ｇｏ！！」

飛び出していった二人を、アルベルトは目で追った。
二人の滑りには、それぞれの性格が如実に表れている。
ジョーは、アルベルトに最初教えられた通りに、基本に忠実に、シャープでリズミカルな膝の動きを見せて、流れるように降りていく。
一方ジェットは、とにかく速けりゃいい、とばかりに雪煙を上げ、ほとんど落ちているに近い。まわりの人間があおりをくって転がったりしている。
あっという間に視界から消えた彼らを見送り、アルベルトはようやく自分のためだけに、陽を受けて輝く雪面に滑り出た。



−４−

陽の当たらない、こぶだらけの急斜面。
ガリガリに凍りついた雪面を捉えられず、勇気を出して滑り出した何人かも転倒する者が相次いでいる。
途方にくれたように下を見下ろしているスキーヤーたちの脇をかすめて、黒い影がザッ…と無造作に斜面に滑り出た。

「すげえ…！」
「見ろよ！　あの膝…」
強くしなやかなバネそのものの足が、ぴたりと両膝を合わせたまま、胸については離れ、見事な動きを見せている。
「…プロだよ、ありゃあ…」
驚嘆するギャラリーの視界から、あっという間にその影は滑り去っていった。


＊

「ヘイ、ジョー！　今回はいただきだったな！」
広いファミリーゲレンデの下で、その高い鼻をいっそう高くしてジェットがニヤッと笑う。
「ああ…」
だがジョーは、そんなジェットの言葉も半分しか耳に入らなかった。
さっき中腹の斜面で彼の眼がとらえた光景が、ジョーの心を乱していた。

……なんだよ！　アレは！
一瞬のことでよく分からなかったが、それは確かにフランソワーズだった。
３，４人の若い男たちに囲まれ、その中の一人に抱きかかえられるようにしていた。みんな親しげな雰囲気で、何より、フランソワーズが楽しそうに笑っていた。

･…まったく、アルベルトがほっとくから…。
いっそのこと通信でフランソワーズに呼びかけようかとも思ったが、彼女が平時にそれを使うことを好まないのを思い出して、それは思いとどまる。
「なんだよ、ジョー。どうかしたか？」
「…さっきフランソワーズがいたろう？」
「え？　どこに？　気づかなかったなぁ…あ、オマエ動体視力いいもんな」
君だって同じはずじゃないか…とジョーは思ったが、
「いや…気づかなかったらいいんだ。でも…そろそろ行ってあげないと…」
見上げたジョーにつられて、ジェットも目の前のゲレンデに目をやったが、広い斜面には家族連れや初心者らしいのがわらわらといるだけで、彼女の姿はない。
「アイツのこった。またどっかで埋もれてるんじゃないか？　もう一回上まで登って途中で拾ってやろうゼ」
相変わらず陽気なジェットに、うん…と答えながら、珍しくジョーはイライラしていた。

……誰だ？　あいつら…。馴れ馴れしく彼女に触りやがって！

だが、それがイライラの原因であることに、自分ではまったく気づいていなかった…。



＊

「グローブを一つ落としてきちゃったみたい」
そう言って彼女が席を立つと、カフェテラスでフランソワーズとお茶を飲むという幸運を手にした大学生４人組は、興奮気味にひそひそとささやき交わした。
「けど、俺たちより年下なんてなー。やっぱり向こうの女の子って大人っぽいよな」
「そうそう。でもチョー可愛いじゃん！　日本語ぺらぺらだし」
「はははっ。目ェつけてる奴ら結構いたみたいだけど、俺たち思い切って声かけてよかったじゃん」
「だよな。けど一緒に来てた奴ら？ひでーよな。あんな美人ほっぽっとくなんて」
「でもいいじゃねえか。おかげで俺たちオトモダチになれたんだし」

俺も一緒に探そうか？　と彼らの一人が言った言葉に
「だいじょうぶ。探し物は得意なの」
そう言ってにっこり微笑んだ顔の可愛いこと！
「あ〜もう、今日は来て良かったよ〜。お前ケータイの番号聞いとけよ！」
「おし！　けど抜け駆けはなしだぜ！」

そんな彼らの会話をよそに、フランソワーズは邪気のない顔で、カフェの入り口から外に続く階段の下に落ちていた自分のグローブを拾い上げようとした……その時。



−５−

「？！　イワン…っ？！」　
いきなり彼女の腕の中に現れた赤ん坊に、フランソワーズは飛び上がらんばかりに驚いた。
「なっ…何？！　どうして？　なんでこんなところに…？！　一体…」
当然のことながらパニック状態の彼女に、イワンは落ち着き払って言う。
《チョットオチツイテ…。マワリノ人ガ変ニ思ウヨ》
…ならなんでこんな唐突な現れ方するのよ！！
そう思ったが、あわてて辺りを見渡し、声をひそめる。
「どうしたのよ、一体…。グレートは？　一緒じゃないの？」
《イヤ、カレハヨッパラッテオヒルネ中。ココマデてれぽーとシテキタンダ》
「なんですって？！」
《練習ダヨ。ナンダカ面白ソウナ様子ダッタシネ》
「イワンったら…」
困った子…とフランソワーズは腕の中の彼を見つめる。

「大体、そんな格好で風邪でもひいたらどうするの！」
ウェアの前を開き、その中にイワンをくるみ込むように抱きしめると、階段を登ってカフェの中に入る。
くふっ…と満足げな吐息をひとつ洩らして、イワンは言った。
《ダケド…あるべると達モ薄情ダネ。キミヒトリオイテキボリナンテ》
えっ？　違うのよ…と、フランソワーズはわずかに頬を染める。
「私…ダメなの。スキーなんて無理。自分がこんなにトロいなんて思わなかったわ」
《デモ、サッキハアノ子達ト、ワリト上手クスベッテタジャナイカ》
ああ、それはね…と彼女は肩をすくめた。
「私が四苦八苦して、ようやくあの男の子たちに助けてもらったっていうのにジョーもジェットもちっとも気づかないで行っちゃううんですもの。なんだか頭にきちゃって、意地になって頑張ったのよ」

あの子たちもとっても親切に教えてくれたし…というフランソワーズに
《ソレハカレラニ下心ガアッタカラ。じょー達ダッテキヅイテナイワケジャナイヨ。ホラ》
窓越しに、ジョーとジェット、アルベルトがやってくるのが見える。
「あ…」
思わずそちらに足を向けかけたフランソワーズを、驚愕の声が引きとめた。

「な…何？！　その赤ん坊！！　まさか…キミの子供？！」
「え…えっ？」
はっと気づくと、そこはあの学生たちのテーブル。
「ち、違うの！！　この子は…あの……」
動揺するフランソワーズに、イワンの一言が追い討ちをかけた。
「ママ、ミルク〜。ミルクほちい、ママ〜〜」
「！！！！！」
「やっぱり〜〜〜〜！！！」
《ちょっとイワン！！　あなた、どっから声…！！》
イワンは普通にはしゃべれない。
《カレラニ向ケタ、チョット強イてれぱしーサ》
あああ…と片手で頭を抱えるフランソワーズ。

と、いつの間に来ていたのか、ジョーが突然後ろから彼女の肩を抱くと、驚いている若者たちに、
「ええ、そうなんです。妻がどうもお世話になりました！！」

「！！！！！」
びっくりしたのは若者たちだけではない。真っ赤になって卒倒しかねない様子のフランソワーズはもちろん、ジェットとアルベルトもあんぐりと口を開けてジョーの顔を見つめている。
ジョーはしかし、顔を赤らめることもなく、平然と、イワンを抱いたフランソワーズの手を引っ張って、その場を後にした。


ようやく事態を把握した若者たちが、口々にののしりだす。
「子持ちかよ…。冗談キツイぜ」
「だよなぁ。可愛い顔して、ありゃあ男に飢えてんな」
ジョーの後に続こうとしたアルベルトが、くるりと振り返ると、これ以上ないというほどの冷ややかな目でジロリと彼らを見て言った。
「……彼女に近づこうなんざ、百年早いんだよ！ゲス野郎！　お前らこそその軽〜い頭を何とかしてから出直しな！」
ドイツ語だったので意味は分からなかっただろうが、その語調の厳しさと、底光りする冷たい瞳の前に、彼らは口をつぐみ、凍りついた。



−６−

「ちょっと…ジョー！…離してよ！…一体なんなの？　あんな…」
ただでさえ慣れないスキーブーツでジョーに引きずられるように歩いていたフランソワーズが、たまらず彼の手を振りほどいた。
振り返ったジョーの瞳が、怒りの色を帯びて彼女を見つめる。
「君こそ何だよ！　あんな奴らにノコノコついていってさ、何かされたらどうするんだよ！」
「何かってなによ？　ヘンなこと言わないで！　一緒にお茶を飲んでただけでしょ！」
「ナンパされてお茶飲んでそれだけ？　だから君は世間知らずなんだよ！」
「なんですって？！」

《すとーっぷ！！》
イワンの声で、二人はハッと口を閉じた。
周りには人垣ができ、皆ニヤニヤしながら彼らの言い争いを眺めている。
ジェットとアルベルトはといえば、少しばかり離れたところで他人の顔をしてそっぽを向いているが、上手くいっているとはいえない。

もともとゲレンデでは目立っていた彼らである。
ジョーたちは、その並外れたテクニックと、人目を引く外見で。
フランソワーズは、容姿に似合わない、あまりの下手さ加減で。

「あ……」
真っ赤になった二人は、あわててその場を離れた。


＊

《ふらんそわーずハ自己暗示ニカカッテル》
口をぎゅっと結んで彼らのもとを離れたフランソワーズから、ジョーの腕の中に突っ込まれたイワンがいつもの冷静な口調で言う。
《すきーヲスルト、怪我ヲシテ、オドレナクナル。無意識ノウチニソウ思イ込ンデ、身体ガウゴカナインダ》

「………」
《今回ノ件ニ関シテハ、じょーガふらんそわーずノ面倒ヲミタホウガイイ》
「はぁ？！　なんでそうなるんだよ」
ジェットが頓狂な声を上げる。
それを横目で見て、イワンは続けた。
《ユックリ、スコシズツ恐怖感ヲ取リ除イテアゲナイトネ。ソレニハじょーノ方ガ適任ダ》
「えっ…？」
戸惑うジョー。
「なんだよ。オレは？　オレじゃダメなのかよ」
ふくれっつらをするジェットに、イワンは冷たく答える。
《キミカラオソワッタラ、ふらんそわーずハ命ガイクツアッテモタリナイヨ》
「なんだとぉ！」
「…それは言えてる」
口の端を上げていつもの笑みを浮べ、アルベルトがイワンに同意する。

「でっ、でも……」
ジョーは、今朝の車の中の、フランソワーズを見つめた彼の瞳を思い出していた。
「せっかくアルベルトが…それに、僕だって今日が初めてみたいなもんだし…」
「いや、オレは正直、アイツに教えるのはもうウンザリだ。イライラしてつい怒鳴っちまうしな。オマエさんの方がきっと上手く教えてやれるよ」
いつもとまったく変わらない調子で、アルベルトは肩をすくめた。


＊

リフト乗り場の前で、フランソワーズはひとり、板を履いていた。
ブーツのバックルを締めようとするが、固くてなかなか締まらない。

（なによ…！　みんな案外冷たいんだから。大体、ジョーのさっきの言い方、なんだっていうの？　自分だって…）
ふと、練習中にこっそりジョーの様子を窺った時のことを思い出して、フランソワーズは悲しくなった。
転んでしまった女の子を、一度ならず優しく助け起こしていたジョー。
（他の子にはあんなに優しいのに……）

きっと私なんて、女の子の部類には入ってないのよ！
グッと力を入れるが、相変わらずバックルは動いてくれない。
（ああ、もう、なんなの？　この留め具ときたら…！！）
イライラと身を起こそうとした彼女の後ろから、グローヴをしていない手がすっと伸びて、いとも簡単に、バチン、バチン、とバックルをはめていく。

「…ジョー…」
「これ、ちょっときついみたいだね。靴は？　ちゃんと足に合ってる？」
「……」
「…だいじょうぶだよ。少しずつやっていけば、必ず滑れるようになるからね」
優しい、そしてちょっぴり照れくさそうな、琥珀色の瞳。
フランソワーズは、開きかけた唇を閉じた。
何か言ったら、涙がこぼれてしまいそうだったから……。


＊

寄り添うようにリフトに乗った二人を遠くから眺めていたジェットが
「しっかし…いまだにジョーのヤツって、よくわからねえなぁ…よくあーゆーこと言えるよ…」
さっきの若者たちに対するジョーを思い出して、ぼそりと言う。
「…ちくしょう！　あいつら、いい雰囲気じゃねえか。それに比べてこっちは…」
腕の中のイワンを情けなさそうに見る。
「お前だっていい雰囲気だぜ」
アルベルトがからかう。
「るせーよ！　オレの腕は女を抱くためにあるんだよ！」
《…イッテオクケドネ》
ジェットに抱かれたイワンが、居心地悪いなぁ、というようにモゾモゾしながら語りかけてきた。
《キミタチハナレッコニナッテルカモシレナイケド、ふらんそわーずハカナリノ美人ダカラネ。性格ダッテトビキリイイシ》
何を言い出すんだ、コイツは…と二人は赤ん坊を見つめる。
《チャントがーどヲ固メテオカナイト、ドコノ誰トモワカラナイヤツニモッテカレチャウヨ。ボクハソンナノ嫌ダカラネ。シッカリシテヨ》
「………」
男二人は、声もなく、彼らの弟分を見つめた…。



その頃、ギルモア邸では。

「お〜い…イワン〜〜。どこに行ったんだよ〜〜。頼むから出てきてくれよぉ〜…」
一気に酔いの醒めた顔で、必死に屋敷中を捜し回るグレート・ブリテン氏の姿があった……。



　　”ねえ…ジョー”
　　”うん…？”
　　”また……スキーに連れてきてくれる？”
　　”もちろん！　……楽しかった？”
　　”ええ。でも、今度は……”
　　”え？　何？　なんて言ったの？”
　　”………”



　今度は、二人っきりで。ね……。



〜おしまい〜



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