───ちりん 鈴の音がした。 ことの始まりは、ジェットがリビングのテーブルに投げ出した、古い鍵だった。 キーホルダーがわりについた、銀の鈴がちりんと、高く澄んだ音をたてる。 「貸別荘？」 「ああ」 ジェットは答えて、にやりと笑った。 「山ん中の、かなり古くてでっかい家だってよ。たまにはみんなで行かねえか？」 「そんなところがあるの？素敵ね、行ってみたいわ」 フランソワーズはジェットに冷えたコーヒーを手渡しながら、テーブルの上の鍵をのぞきこむ。 その様子を見たジェットが、またにやりと笑いながらジョーを振り返った。 「ジョーはどうする？」 「え？も、もちろん行くよ」 慌ててジョーが答え、その後視線を泳がせた。 「でも…博士が……たしか出かける予定じゃ…」 「わしのことは気にしなくていい。みんなで行っておいで。イワンはちょうど夜の時間じゃから、わしが見ていよう」 「オレ、残る。博士とイワン、まかせろ」 ジェロニモが、フランソワーズを見て頷くと、穏やかに笑った。 どうやら、羽を伸ばしておいでということらしい。 「わいは店があるアルヨ。残念アル。だけど今はカキイレ時アル。もちろんグレート、あんさんも手伝うアルヨ！」 「え、ええ〜？わ、わかったよ。ちぇ、アツイ厨房より、涼しい山荘のがいいなぁ」 渋々とグレートが頷いた。 「残念だな。みんなで行けたらよかったのに」 ジョーが、少しだけ寂しそうにつぶやく。 「ま、また機会があるさ。じゃあ、ハインリヒとピュンマも参加な」 「日本の古い家かぁ。ちょっとおもしろそうだね」 「まあ、たまにはつきあってやるか」 口々に言う仲間たちを見やって、ジェットが満足気に笑った。 彼はこういったイベントごとを仕切るのが、性にあっているようだ。 「出発は明日朝8時、おくれんなよ」 「あ、明日？そりゃまた急だな」 「いいだろ？別に。なんか問題あるか？適当に行って、適当に帰ってくればいいだろ？」 「ふふ、はりきってるのね。ツアーコンダクターさん。どこに連れていってくれるのか、楽しみにしてるわね。さあ、準備しなくちゃ」 フランソワーズの言葉に、ジェットは気を良くし、仲間たちは三々五々散っていった。 「ジェットも、ホントにいきなりだなあ。いつものことといえば、いつものことなんだけど」 フランソワーズの隣で、ジョーが苦笑した。 「そうね、でも、いつも楽しませてくれるじゃない。どんな所かしら！うふふ、何を着ていこうかな、楽しみだわ」 「そうだね」 答えて、ジョーは笑った。 彼女が喜んでいる。それだけで僕はうれしい。 こんなにはしゃいでいるのを見るのは久しぶりだった。 フランソワーズが「持っていくもの」を数え上げているのを聞きながら、ますます明日が来るのが楽しみになってきている自分に気がついた。 そういえば、一緒にどこかに行く、なんてことも久しぶりだ。 ジェットに感謝だな。彼は口の中で小さくつぶやいた。 「わあ、すごくいいお天気。いい所ね！」 車から降り立ったフランソワーズが、大きくのびをしながらみんなを振り返った。 ワンピースの裾が、風にひらりと舞う。 ジェットのいう「貸別荘」には、家を出てから2時間とちょっとで到着した。 下り線の高速道路を降りたあと、ひたすら山に向かって走った。 だんだんと深くなっていく森。 蝉の声がうるさいくらいの中、滑るように5人の乗ったワンボックスカーは進んでいった。 山沿いにうねっていく上り坂を慎重に通り抜け、長いトンネルを越えた先で、ようやく停車したところだ。 「ホントだな。空気も綺麗だ」 ピュンマも、同じようにのびをして、辺りを見回した。 「だろ？その別荘ってのはこっちだ。ちょっとだけ歩くぜ。車は入れないんだ」 助手席から降りたジェットが先頭に立って、木々の中を歩いて行く。 もちろん、足元はアルファルトではなく、あちこちに草の生えた土の道だった。 その後を小石を蹴飛ばしながら、荷物を抱えた4人が続く。 「運転お疲れさま」 小走りに彼に駆け寄ったフランソワーズが、そっと囁いた。 「どういたしまして」 ジョーも彼女に笑みを返す。 ここまで、今回のツアーコンダクターをきどるジェットをナビとして、彼一人が運転してきた。 疲れたということもないが、この開放感が心地いい。 二人は小さく笑いあうと、仲間の一番後ろを歩く。 ピュンマがちらりと視線をよこしたけれど、小さな笑みを浮かべただけで、何も言わなかった。 「でも、ホントに涼しいな。あっちの暑さがウソみたいだ」 「ええ、風が気持ちいいの。木の匂いもね」 その言葉に応えるように、強めの風が渡って、木々をざざと揺らす。 また二人は、顔を見合わせて笑いあった。 「おーい！二人とも何してんだ、早く来いよ！」 いつの間にかずっと先に行ってしまったジェットが、二人を呼んでいた。 「行こう、フランソワーズ」 「ええ」 頷く彼女と共に急いで追いついた時、先に着いていた仲間と同じように驚きの声をあげた。 全員が想像していた建物の大きさを、遙かに越えている。 もっとこぢんまりとした、山小屋のようなものを想像していたのに。 彼らの目の前には、緑の豊かな垣根が巡らされている。 その垣根から、建物の距離は短くない。 思っていたよりもずっと広い庭。 松や彼らの名前のしらない木が、絶妙なバランスの形を保って、そこに存在していた。 大きな家の裏側には、大きく枝をはりだした大木もあった。 さわさわと葉ずれの音がして、なんだか涼しげだ。 その枝に守られているような茅葺きの屋根も、重厚なイメージを与えていた。 たくさんある窓は、玄関の引き戸もすべてが木でできていて、その中にガラスがはまっていた。 ガラスの奥には広い縁側が見える所もある。 「すごいわ」 フランソワーズが小さくつぶやいた。 「本で見た昔の日本家屋と同じだな。庄屋の屋敷ってところかな」 ピュンマがその隣でつぶやく。 「ホントにここなんだろうな？」 ハインリヒが、腕を組んだまま、からかうような口調でジェットを見た。 「あ、あたりまえだろ。ちゃんと場所は聞いて来てるんだからな」 ポケットから鈴のついた鍵を取り出すと、玄関の鍵穴に差し込んだ。 貸別荘としているだけあって、古そうに見えてもこういう所はきちんとしているらしい。 小さな音がして、なめらかに玄関の戸がすべる。 外が明るかった分、玄関の中は真っ暗に見えた。 ジェットは戸を全開にすると、一歩中に入る。 広い玄関があった。 土間ではなく、石が敷き詰められている。 正面には、目隠しのついたてがおいてあり、ひんやりとした空気がその奥から流れ出てくるようだった。 「はあー」 ため息とも取れる感嘆の声をよそに、ジェットはさっそく靴を脱いで上がりこんだ。 「今日からしばらく、ここがオレたちの家だ。よろしく頼むぜ」 太く、黒い艶のある柱を軽く叩く。 彼らはそれを合図に、屋敷の中の探索を始めた。 その家は、壁というよりは、壁のかわりをする戸がほとんどでできていて、開け広げられるような構造になっていた。この戸をすべて開けたら、すばらしくよく風が通りそうだ。 ピュンマが庭に面した障子を開けると、そこは先ほど見た縁側があった。 そこの窓に手をかける。重たそうに見えた窓は、鍵をはずすといとも簡単に動いた。 縁側から入ってくる風が、心地いい。 「ジェットにしては上出来だな。どうやってここを見つけたんだ？こんなシーズンにいきなり借りられるほど暇じゃないだろう？この家は」 「うるせえな。いいだろ？その辺がオレ様の力ってことだ。ま、いろいろとな」 「ふうん、まあ、そう言うことにしておいてやるさ。ところで何やってるんだ？」 ひととおり部屋を確認したジェットが、紙に簡単な間取り図を書いていた。 一番端の南向きの部屋のところに、フランソワーズの名前を書き込む。 「ま、フランソワーズにその部屋を使ってもらうことに異論はないな」 ハインリヒも頷く。 「いいの？」 そういいながらも、彼女は嬉しそうだった。 そこの窓からは、庭に夏の花が咲き誇っているのが一望できる。 それを思い出して、全員が頷いた。 「きまりだな。あとは…適当でいいだろ」 ジェットの独断で部屋を割り振って、各自の部屋に荷物を運びこむことにした。 もちろん、ジョーが彼女の隣の部屋を死守したことは、言うまでもない。 家の中を軽く掃除し、整えて、やっと一息ついたときには、もう黄昏時だった。 部屋の窓を開けて、畳の上に寝転がる。 最初に見た大木が、この部屋からはよく見えた。 見れば見るほど立派な木だ。そして、その木のおかげでずいぶんと涼しい。 一人でぼんやりと、オレンジ色に染まり始めた空を木の枝の隙間から見上げていた。 一つ息をつく。 つい先刻のことだ。フランソワーズが夕食の準備を始めたところで、足りない物に気が付いたらしい。 「ジョー、ちょっと買い物に行ってくるわね。ええ、大丈夫よ。ハインリヒも何か買いたい物があるみたいだから、一緒に行って来るわ」 部屋の中を片づけていた彼の元にやってきて、そう告げた。 彼女の後ろには、ハインリヒが車のキーを弄びながら立っている。 「僕も一緒に行こうかな」そう言い掛けた所で、ハインリヒの含み笑いに気付いて、なんだか悔しくなった。 一つ息を吸って言葉を飲み込んだ彼を、またハインリヒが笑った。ますます悔しい。 彼は、ちらりとハインリヒの方を見てから、彼女に笑顔で答えた。 「わかった。じゃあ、気をつけて」 そう言って送り出したものの、今度はやることがなくなってしまい、こうしてぼんやりとしているというわけだ。 いつの間にか、ジェットもピュンマもいなくなっている。 散歩にでも行ったのかな。ふとそう思って、窓の方にむかって寝返りを打った。 部屋の中を染めていたオレンジが、徐々に暗くなっていく。 もう東の空は、紺色に近くなっていた。 ざざっと木の枝がなった。風が出てきたようだ。日が暮れたら寒いくらいかもしれない。 「……お兄さん、誰？」 不意に掛けられた声に驚いて起きあがると、開け放した窓から辺りを見回した。 その先に、ぼんやりと小さな人影が見える。 彼はじっと目を凝らした。 藍色に、赤い花の柄の浴衣を着た少女が庭先に立っていた。 長くまっすぐな髪が、肩を越している。 まだ11、2歳くらいだろうか。 薄闇の中でも、白い顔に大きな黒目がちの目が印象的だ。 その瞳がじっとジョーを見ていた。 「……見かけない人」 「ああ、今日から少しの間、ここを借りてるんだ。君はこのあたりに住んでるの？」 少女はこくんと頷いた。 「そうか、いいところだね。ここ。すごく静かで、きれいで。こんな所に住んでる君がうらやましいな」 「うん」 少女が、ちょっとはにかんだように微笑む。 「とってもいいところよ。私はここが大好き。ずっと…ここにいたいの」 その少女にジョーもまた、笑いかけた。 「うん、わかるよ。僕もここにいられたらいいなって思ったんだ」 「ここにいればいいよ！ずっと」 ジョーは笑った。 少女もまた、ジョーを見て笑う。 「ここでほかの人とお話ししたの、はじめて。いろんな人が遊びに来ていたんだけど、お話ししたことはなかったの。ちょっとびっくりしちゃった」 「僕達、今日ここに来たばかりなんだ。いろいろ教えてくれるとうれしいな。しばらくここにお邪魔してるから、いつでも遊びに来たらいいよ」 「本当？本当に遊びに来てもいいの？」 少女が目を輝かせて、小走りにジョーのいる窓に近づいた。それに合わせて、ちりんと鈴が鳴る。 期待に満ちた瞳で、ジョーを見上げる。 「もちろんだよ。ああ、でも、おうちの人にも怒られないようにね」 「本当に来るね、お兄さん。私と遊んでくれるよね。一緒にいてくれる？」 ジョーは頷いた。 「みんな、歓迎するよ。ああ、僕はジョー。君は？」 「ひな。雛子」 「ひなちゃんか。よろしく」 雛子がじっとジョーを見つめ、微笑んだ。 二人は短い間に、いろいろなことを話した。 この家の裏にある小川のこと、一番涼しい場所のこと、美味しい木の実がとれる所。 雛子は、そんなことを自慢気にうれしそうに話す。 「ひなちゃんは、ホントにここが好きなんだね」 「うん！」 そういってから、小首を傾げる。 「……そうだ、お兄さんには特別に教えてあげるね。とっておきの場所」 「本当かい？」 「うん、お兄さんもきっと、ここが大好きになるわ。帰りたくなくなっちゃうかも。暗くなったら来てね。私、待ってる」 地面に、落ちていた棒きれで簡単な地図を書く。 すぐに雛子の言っている場所は、この家の裏側の道をまっすぐに行ったところだと分かった。 「絶対来てね。ひな、待ってるから」 ジョーは笑ってうなずいた。夜の散歩も悪くない。 こんなかわいい友達なら、フランソワーズもきっと気に入る。 だから一緒にその場所に行ってみよう。 そのくらいは、みんなだって許してくれるはずだ。 そこまで考えてふと気付く。 そんな夜に、小さな女の子が出歩いても大丈夫なのだろうか。 「もう暗くなる。早く帰らないとおうちの人が心配するよ？」 雛子がふと、俯いた。なんだかその姿がとても寂しげに見える。 闇が徐々に辺りに広がり、雛子の姿をもその中に隠し始めていた。 「おい！ジョー？なにやってんだ？」 雛子の立つ庭の反対側から、ひょこりとジェットが顔を覗かせた。 「ジェット！どこに行ってたんだい？友達ができたんだよ」 「へ？」 一瞬雛子とジェットの視線が交錯する。 次の瞬間、雛子は身を翻して夕闇の中に走り去って行った。 ちりんと小さな鈴の音が残った。 「ひなちゃん？」 ジョーの声に一度だけ振り返って、そのまま走っていってしまった。 「な…なんだぁ？なんでオレの顔を見て、逃げるんだよ？ジョー？」 「さあ？外国人が珍しかったのかも」 小さく笑いながら、ジョーが答えた。 「で？あれは誰だ？」 ジェットがジョーを振り返る。 「この辺に住んでいる子みたいだ。ひなちゃん。雛子って言うんだってさ」 「はん」 「この辺りのことを教えてくれたから、また遊びにおいでって誘ったんだ」 「まあな。相手は子供だ。いいけどよ」 ジェットが意味ありげに、のんびり笑うジョーを見た。 「なんだい？」 「なんでもねえよ。ほら、フランソワーズたちが帰ってきたぜ」 怪訝そうに見るジョーに、ジェットは一つため息をついて背を向けた。 ただ一人、何も分かっていないのはジョーだけだった。 「ホント？ジョー、私も行ってもいいの？」 縁側で冷えたスイカを切りながら、嬉しそうに笑うフランソワーズ。 『いかにも』という夏の風景は、ジェットのリクエストによるものだ。 切ったばかりのスイカに手を伸ばして、ジョーは頷いた。 「きっとひなちゃんも喜ぶよ。夜だしね」 ジョーの言葉に、フランソワーズも頷いた。 女性が一緒の方が、雛子の保護者も安心するだろう。 綺麗に切り分けたスイカをみんなに預け、ジョーはフランソワーズと連れだって、虫の声をききながら家の裏側を歩き始めた。 空には満天の星。 いつも見ているはずの空の星の数が、なんだか近く、さらに倍ほどの数に見える。 彼女は感嘆の声をあげた。 「こんなにたくさんの星……降って来そうなくらいね」 「うん、手を伸ばしたらつかめそうだ。あっちじゃ、こんなに見えないよね」 歩きながら空を見上げる。 今日は月も細い。星の光が瞬いているのがはっきりと感じられた。 「ほら、ここ、危ないよ。段差がある」 さりげなく、彼が彼女の手を引いた。 「ありがとう」 彼女の手が、彼の手を握りかえす。 それだけで、なんだか嬉しかった。 そんな風に歩く小道の両側には、徐々に大きな木が繁り、空をも隠してしまっていた。 いくら夜目のきく彼らだとはいえ、なんとなく心細く、しっかりと手をつないだまま十分ほども山に向かって歩いた頃だろうか。 急に視界が開けた。 その先にふわり、ふわりと光が浮いている。 光の真ん中に、浴衣姿の雛子が立っていた。 その後ろは小さな池のようだった。光が、水面にちらちらと映っている。 そして、その淡い光に照らされて、雛子自身も光を放っているように見えた。 雛子が、ジョーの姿を見つけて手を振った。 その手にも、光がまとわりついている。 彼もそれに答えて、手を挙げた。 「きれい……」 ジョーの後ろでフランソワーズがつぶやく。 「蛍だね。こんなにたくさん……」 雛子の周りを、蛍が取り巻いていた。まるで雛子の元に集まってきているかのようにすら見える。 ふいに、雛子の振っていた手が止まる。驚いたように二人を見て、雛子がきいた。 「お兄さん、その人………誰？」 その言葉を合図に、雛子の周りから光が離れていく。 「えーと」 ジョーはちらりとフランソワーズを見てから、言葉を続ける。 「僕の……友達。ひなちゃんに会いたがっていたから一緒に来てもらったんだ」 「あなたがひなちゃんね。はじめまして。私はフランソワーズ。よろしくね」 雛子は黒い瞳でフランソワーズをまっすぐに見る。 そしてその視線をジョーに移した。 「ひなちゃん。ホントに綺麗な場所だね。こんなにたくさんの蛍と、綺麗な夜の風景は初めて見たよ」 ジョーは、笑って雛子を見た。 雛子はそれを認めると、その視線を外し、自分の足下を見つめていた。 「ひなちゃんのとっておきの場所を、僕らにも教えてくれてありがとう」 雛子は、一言も口をきかずに二人に背を向けた。 「ひなちゃん？」 ジョーがもう一度声をかける。 「わたし、帰る」 そう言い残して駆け出した。その途端、 「あ！」 赤い鼻緒の下駄がするりと脱げた。 つんのめって転びそうになる雛子に、ジョーがとっさに手を出した。 が、雛子は何とか転ばずに体制を立て直す。 「大丈夫？」 その雛子のすぐそばで、ジョーの声がした。 「お兄さん…あ、ありがと。もう大丈夫だから」 ジョーの伸ばした腕を見て、下駄をはき直した。 もう一度フランソワーズに視線を送り、かたかたと足音をさせて走り去る。 その後を、鈴の音が追いかけていった。 「ちょっと！ひなちゃん！フランソワーズ、ちょっと待っていて、見てくる」 言い置いてすぐに後を追いかける。こんな暗い中を小さな女の子が一人では心配だ。 少し走って、辺りを探ったが、もう見えない。 どこか横道に入ったのだろうか。 少しの間、辺りをうかがってみたが、どんな気配も感じられなかった。 雛子は地元の子だと言っていた。自分よりも、もっと道を知っている。 今頃無事家に付いていることだろう。 一つため息をついて、来た道を戻る。 木々が開けた池のほとりには、フランソワーズが座っていた。 ふわりふわりと戻ってきた光に、今度は彼女が照らされている。 綺麗だな……素直にそう思った。 広げた手のひら、亜麻色の髪のはし、白い肩、光を見つめる瞳。 淡い光が、ほんのりと彼女の姿の一部分を浮かび上がらせる。 「ジョー」 光がふわりと舞った。 「ひなちゃんは？」 首を振って、少し困った顔でフランソワーズを見ると、彼女の傍らに立った。 「…なんだか私、嫌われちゃったみたいね。景色はとっても美しくて、うれしかったけど……来ない方がよかったかしら」 ぽつりとフランソワーズがつぶやいた。 「まさか。君を嫌う人がいるなんて、思えないよ」 ジョーの言葉に、フランソワーズが小さく笑む。 「もう、ジョーったら、ホントに分かってないのね」 「なにを？」 「ほら、やっぱりなんにも分かってない」 くすくすとフランソワーズが笑った。 「え？」 「ひなちゃんはあなたと一緒に見たかったのよ」 彼女から、今までの笑みが引いていた。少しだけ遠くを見るように、蛍の姿を見つめている。 「そうなのかな」 その遠い視線の先を思い、少しだけ寂しい気持ちで見ながらジョーが頷いた。 「でも……」 光がふと途切れる。 「僕は、君と一緒にも見たかったんだけどな。とっておきの場所……楽しみにしてたんだ」 ジョーの頭の中には、もう雛子のことは浮かばなかった。 また輝きだした光の中で、二人の影が重なる。 心地よい風が吹いていた。 どこかで小さく、鈴の音がした気がした。 フランソワーズが、また同じ鈴の音を聞いたのは、あたりの静まり返った深夜、 自分の部屋の床の中でのことだった。 眠りの中から、だんだんに意識が浮かびあがっていくのがおぼろげに分かる。 ふと瞼を開けた。 『……お兄さんを、私にちょうだい』 どこからか声が響いていた。 「…ひなちゃん？」 急速に頭がはっきりとする。 『あなたはいろんなものを持ってる。だから、お兄さんは私にちょうだい』 辺りをぐるりと見回すが、ようやく見慣れた自分の部屋のもの以外、何も確認できなかった。 なぜだか起きあがることができない。 「どうして？」 焦る気持ちと驚きを抑え、極力冷静に、フランソワーズは聞いた。 『わたしには、お兄さんだけなの。お兄さんだけが私にやさしくしてくれるの』 「そんなことないわ。ひなちゃん、どこにいるの？」 『あなたにお兄さんはあげない。私と一緒にいてもらうの』 「ひなちゃん？」 『お兄さんは私だけのお兄さんになるの……だから……』 急に声が空気に溶けるように消えていくと同時に、ちりんとまた鈴が鳴った。 それを合図に、体が自由になるのがわかった。 フランソワーズは起きあがって、障子を開け、窓を開けて外を見る。 だが、やはりそこには何もなかった。 山の涼しい風が部屋の中を抜け、風に乗って蚊取り線香の匂いが漂う。 風に揺れる木の枝が鳴っている。虫の声も響いていた。 その中にかすかに鈴の音が聞こえたような気がする。 なんだか嫌な予感がした。 ざわざわと足元の方から、なにか嫌なものが上がって来るかのようだった。 彼女はパジャマ姿のまま、部屋からそっと抜け出した。 「…ジョー？」 襖の前で、小さく声をかけてみる。 「ジョー、起きてる？」 何も反応がない。当たり前だ、この深夜ではぐっすりと眠っているはず。 起きている方が、変なんだわ。私が起こしちゃったかしら。 そう思って、フランソワーズは、細くふすまを開けてそっと中を覗いた。 彼は布団の中に横たわっていた。 「ジョー？」 おかしい。 どんなに深く眠っているように見えても、自分たちは仲間の声に敏感だ。 いくら、危険のない時でも、その習慣だけは体から離れない。 これだけ呼んで、彼が起きあがらないことに不安を覚えた。 「ジョー？どうかした？ジョー！」 部屋の中に入り、ジョーの枕元で呼び続ける。 「ねえ、おねがい、起きて！」 彼は微動だにしなかった。 小さく息をしていることだけがうかがえる。 「ジョー！」 「どうしたんだ？フランソワーズ」 襖の影から三人が顔を覗かせていた。 彼女が振り返る。 「ジョーの様子がおかしいの。これだけ呼んでも起きてくれないの！」 「え？」 ジェットが横たわったジョーの体を揺すった。 「おい、起きろよ、ジョー」 軽く叩いても、目を開ける気配すらない。 お互いをうかがうように、視線を走らせる。 おかしいとしか言いようがなかった。 「一体、こいつはどうしたっていうんだ？」 「わからない」 フランソワーズは両手を組み合わせて、祈るような姿で彼の寝顔を見つめていた。 「どうしてフランソワーズは、ジョーの異変に気付いたんだい？」 ピュンマがちらりと彼女の様子を見ながらきいた。 「…声が……」 「声？」 「そう、声がしたの。ひなちゃんの声だった。あの子の持っていた鈴の音もしたわ。『お兄さんをちょうだい』って……」 「はぁ？」 ジェットが声をあげる。 「なんだ、そりゃ？」 「わからないの。ただ、そういう声が聞こえて……なんだか急に不安になって、ジョーを訪ねたの。そうしたら……もう……」 フランソワーズの青い瞳には、すでに涙が浮き上がっていた。 「ジョーは大丈夫だよ。心配すんな」 ジェットがフランソワーズの肩に手をおいた。 彼女も頷いて、涙を拭う。 「で、そのヒナコは一体どこにいるって言うんだよ。だいたい、どうやってジョーを……」 「雛子ちゃんは……何者なんだ？僕は会っていないけれど、ジェットはその子のことを見たんだろ？」 ピュンマが問うようにジェットとハインリヒを見た。 「知らねーよ。ジョーのヤツが知り合って呼んだんだ。この近所の子だとしか聞いてねえ」 ジェットがフランソワーズを振り返る。 「私も知らないわ。ジョーに聞いたところだと、庭先に立ってたって。さっきも、蛍のいる池を教えてくれて、ジョーと一緒に行ったの。そこにひなちゃんは待っていたわ……でも……いくらこの辺りに住む子だといっても、あんなに心細い道……一人で行くかしら……」 「……家はどこだって言った？」 「聞いてないな」 ピュンマが答え、ジェットと顔を見合わせた。 「…まさか？」 「んなもの、いるか！バカなことを言ってるんじゃない。それより、ジョーだ」 ハインリヒが吐き捨てるように言った。 幽霊なんているものか。いるとすれば自分が一番見ていておかしくない。 ……幽霊が存在するのなら、きっと幽霊になって自分に会いにくるだろう。あいつが。 そう考えて、頭を振った。 「博士とイワンに連絡してみるか？」 ハインリヒが腕を組む。 「もう少し、様子を見てみよう」 ジェットとピュンマが頷いた。 「……ジョーは？ジョーはどうなってしまうの……」 フランソワーズがジョーの手を取って頬を寄せた。 ぽたりと涙が、ジョーの頬に落ちる。 それでも、ジョーが動くことはなかった。 ──ちりん……どこかで高く鈴の音が響いた── そう気付いたとき、ジョーの前には、フランソワーズの姿があった。 足を崩し、畳に手をついて俯いていた。 オレンジ色のランプの明かりが、彼女を下から照らしていた。 広がったスカートから伸びる裸足の足が、妙に白く輝いて見える。 「フランソワーズ？」 小さく声をかけた。 彼女は、ゆっくりと顔を上げる。 亜麻色の髪が、その白い顔にかかっていた。 彼の姿を認め、ゆっくりと笑う。 オレンジ色の光の中で、いつもよりも赤く見える唇。 青い瞳が潤んで、熱っぽく彼を見つめた。 「…ジョー……」 かすれた声で彼の名を呼ぶ。 「……ここに来て……」 白い指が彼を呼んだ。 ジョーはそれに誘われるように彼女に近づく。 「ああ…ジョー……」 ため息のような呟きが、彼の耳に届いた。 そのまま彼女は彼の胸にすがりつく。 「お願い……ずっと私を離さないで、そばにいて。強く……強く抱きしめていて」 彼の首に、彼女の白い腕が巻き付いた。 ひんやりとした冷たい肌が、自分の体に吸い付くようだ。 彼の首筋を、細く長い指がなぞる。ぞくりと背筋が震えた。 「……ジョー…お願い……」 ゆっくりと彼女が顔を上げる。 触れてしまいそうなほど近くに、彼女の顔があった。 柔らかな髪の毛が、彼の頬をくすぐる。 ふわりといい香りが漂っていた。 「…やめよう。ひなちゃん」 今にも泣き出しそうな表情で、彼女が彼を見つめた。 「……どうして？」 「君にも、フランソワーズにも、そんなのは似合わないよ」 「どうしてそんなことを言うの」 彼は、彼女の肩をそっとつかむと、自分の体から引き離した。 「君はフランソワーズじゃない。フランソワーズは君じゃない……ひなちゃんはひなちゃんだろう？」 「……お兄さんは、この人が好きなんでしょう？だったら、この人のかわりでいい！ずっとこの姿でいるから！お兄さんのためになんでもするから。だから一緒にいて」 「……フランソワーズのかわりは誰にもできない。ひなちゃん、君の代わりもね」 「ここにいて！ここに一緒にいれば、私はお兄さんに触れられる。体があるんだもの。夢の中なら、いつでも」 その言葉はジョーに向けられてはいなかった。 彼女の顔に、黒髪の少女の顔がだぶる。 彼は冷静になろうと思った。 どういうわけだか分からないが、ここは雛子の支配する空間らしい。 雛子のペースにつられてはいけない、なぜだかそう思った。 「ダメだよ」 その瞳をみつめながら、ジョーは静かに、でもきっぱりと言った。 「どうして……どうしてお兄さんは、私と一緒にいてくれないの？」 「ひなちゃんはどうして僕と一緒にいたいの？」 彼が肩をつかんでいる女性は、もう雛子の姿に戻っていた。 小さな肩が震えている。 「……お兄さんだけだもの。私にお家に来てもいいっていったのは。私と……遊んでくれるって言ったのは。……なのに……なのに……お兄さんはあの人を連れてきた……私の場所に……」 だんだんと声がかすれていく。 黒い髪の間から、ぎらぎらとした瞳がのぞく。 「あの人のせいね。……あの人がいなかったら、お兄さんは私といてくれる」 「ひなちゃん？」 「……そうしたら、ずっと私は一人じゃない……これからはお兄さんと一緒。お兄さん、ううん、ジョーと一緒」 「ひなちゃん、なにを……」 「待っていて、ジョー。私、あの人を……あなたがずっと私と一緒にいてくれるように、あの人を………」 だんだんと雛子の姿が消えていく。 ジョーが肩に掛けていた手が、支えを失ってぱたりと落ちる。 「ひなちゃん！一体どういうことなんだ！どうするつもりなんだ！？」 先ほどまで眠っていた自分の部屋と何も変わらない場所で、ジョーの声だけが響く。 一体ここはどこなんだ。 どうすれば、元に戻れる？ どうすれば、雛子を止められる？ 先ほどの言葉を信じるのなら、雛子がフランソワーズに何かしようとしていることは明白だ。 そんなことは絶対にさせない。 それが、雛子でも。 仲間の所に。彼女の元に。それだけを考えて、ジョーは辺りをうかがった。 （ジョー…お願い、目を覚まして……） フランソワーズは祈るような気持ちで、彼の枕元に座ったまま、その顔を見つめていた。 他の仲間は別室で、顔をつきあわせて相談しているようだった。 はじめはその中で話をきいていたものの、為す術もなく、様子を見ることしかできないことは分かり切っている。気持ちが焦るばかりだ。 何もすることができなくてもせめて、とそこから離れ、一人、部屋で彼の様子を見守っていた。 「……ジョー……どうしちゃったの？どこに……いるの？」 小さくつぶやく。 「あなたに何かあったら……私……」 こんなことは初めてだった。 規則正しい呼吸以外、動かない彼の姿を見ていると、胸が苦しかった。 一体彼に何があったのだろう？そして、自分に何ができるのだろう。 「…私の手の届かないところに行かないで。何をしていてもいいから、お願い、私をおいて行かないで」 ──ちりん どこかで鈴の音がしたような気がした。 「え？」 辺りを見回す。 ──ちりん また。 『私があなただったらよかったのに』 ふいに耳元で声がした。 「きゃっ！」 慌てて振り返っても誰もいない。 「……なに？……ひなちゃん？」 『あなたは私の欲しかったものをみんな持ってるの。やさしいお友達。綺麗な姿。大人になった体。優しいお兄さん……ううん、やさしいやさしいジョー……』 うっとりとした声が、今度は反対側からした。 「ひなちゃんなの？」 無意識に、ジョーの腕に手を触れながら辺りを見回す。 『眼』を使っても、何も見えなかった。 『あなたがいなかったら、ジョーは私といてくれるかもしれない。きっと一緒に遊んでくれる……私の側にはだあれもいてくれなかったけど、ジョーならずうっと私の側にいてくれるかもしれない。だから……あなたはいなくなっちゃって』 フランソワーズが、再度辺りをうかがった。 信じられない。 『いつもそう。目が覚めると、誰もいないの。ここには違う誰かがいて。いつも私はひとりぼっち。ずっとずっとここにいるのに、この姿のまま。大きくなれない……ここから離れたくない……だあれも知ってる人がいなくなって……。それでも私はこのまま。ここから離れられない……でも今は違う』 フランソワーズの左隣にひんやりとした空気を感じた。 とっさに振り返ると、雛子がちょこんと座っている。 『目が覚めたら、そこにジョーがいた。話しかけたら、笑ってくれた。いっぱいいろんなことを話してくれた。ひなはひとりぼっちじゃないって…思わせてくれた。ジョーだけが』 フランソワーズの、彼をつかむ手に力が入る。 『あなたには他にもお友達がいるじゃない。…だから……ジョーを私にちょうだい』 ゆっくりと雛子は顔を上げる。 やけに光る目だけが、しっかりとジョーを捉えていた。 「だめ！……絶対に…だめ」 言って、しっかりとジョーの腕をつかむ。 『……そんなこと言っても無駄よ。あなたにはなんにもできないでしょ？』 そのからかうような物言いに、いらいらとさせられた。 彼がここで目を覚まさないでいるというのに！ その鍵を雛子が握っているのは明白なのに。 自分になにができる？ 「ひなちゃん、ジョーに何をしたの？お願い、ジョーを元に戻して」 語気を強めて雛子を見た。 雛子もまた、ちらりとフランソワーズに視線をよこす。 どちらも黙ったまま、お互いの瞳の奥を探り合っていた。 「フランソワーズ？どうかしたのか？」 襖の向こうでハインリヒの声がした。 「来て！ひなちゃんが……」 「おい、フランソワーズ？悪ふざけはよしてくれ、ここを開けろよ」 はっとして、雛子を見た。 雛子が無邪気に笑う。 『ふふ、あなたは私の言ってること、信じてくれるのね。外のお兄さんたちは信じてくれていないみたいだけど。なにも……なにもしてないわ。ジョーはただ私と同じ所にいてくれるだけ』 ──ちりん また鈴が鳴った。 『私はいいの。このまま、ジョーが一緒にいてくれれば。ジョーがあなたのことなんか思い出さずに、ひなとだけいてくれれば』 ──ちりん 「どうしたんだよ、ハインリヒ」 「これが開かないんだ。中にジョーとフランソワーズがいる」 「はあ？」 ジェットの素っ頓狂な声が聞こえる。 「蹴破るしかないね」 ピュンマががたがたと襖を揺らしているのが分かる。 だが、彼女にもどうすることもできなかった。 雛子から目が離せない。 ──ちりん 『どうしたの？ジョーをあきらめる気になった？それなら、ここから出ていって』 ──ちりん 「ジョーは、ここに帰ってくる。いつでも、どんなことがあっても。……私とそう約束したから」 静かな声でフランソワーズがつぶやいた。 雛子の目が、剣呑に細められる。 「だから、ジョーを信じてる。必ず私たちのところへ帰ってきてくれる」 フランソワーズの手が、触れていたジョーの腕から手のひらへと移行する。 ゆっくりと持ち上げて、その手を握り、自分の頬に押し当てた。 「…だから……目を覚まして。私はあなたの力になりたい…あなたを…守りたい」 突然、ジョーの手を握る彼女の手が、はじかれたように跳ね上がる。 『やめて。やめて。やめて！』 彼女という支えを失った、彼の手がぱたりと布団の上に落ちた。 『あなたさえ、いなければ！』 雛子の小さな手が、吸い付くように彼女の白く細い首にかかった。 「……どうするの？…私を殺す？」 彼女の言葉に答えるように、もう片方の手を彼女の首をつかむ手に添える。 そしてその手には徐々に力がこもっていた。 『いなくなっちゃえばいいのに』 なぜか、その瞳には涙が浮かび上がっていた。 『そうすれば、ジョーはひなといてくれるのに……』 「……聞いたの？ジョーはどうしたいのかって。ジョーがそれを望むのなら、私はあなたの言うとおりにするわ」 『うるさい……うるさい！』 ──ちりん 雛子の声に鈴の音があわさる。 ひんやりとした手は、思いもよらないほどの力で彼女の首を締め上げていた。 細いのどに、雛子の小さな指が食い込んでいる。 「せーのっ！」 かけ声とともに、三人が襖に体ごとぶつかった。 今まで、押してもひいてもびくともしなかった襖が、今は簡単に破れ、内側に倒れ込んだ。 勢いあまってたたらを踏む。 「うわっ！」 「フランソワーズ！」 『あっちへ行って！』 雛子の目が妖しく光る。 三人はどうしてもそこから先へと進むことができなかった。 それどころか、どんどん室温が下がっていく気がする。 ぞくりと鳥肌が立った。 「な、なんなんだよ、ヒナコ！やめろ！フランソワーズから手を離せ！」 「お前は何者だ？」 問いかけたハインリヒにちらりと視線をよこす。 『なんでもいいでしょう？あなたたちも同じ目に会いたい？私の邪魔をするのなら、容赦しないわ』 まだ幼いとも言える姿なのに、その目だけは到底子供のものとは思えなかった。 「……幽霊か？」 ピュンマが、雛子を見て呟いた。 「幽霊って……ゴーストかぁ？」 雛子がきつい目をして、ジェットを睨んだ。 ふわりと黒髪が浮き上がる。 その時だった。 「……ひなちゃん、フランソワーズから手を離して」 いつのまにかジョーが半身を起こしていた。 「ジョー！」 『…ジョー……』 フランソワーズと雛子の、彼を呼ぶ声が重なる。 「ひなちゃんが、僕を連れていきたいと思っているのなら、連れていけばいい。ここにずっといろというのなら、ここにいる。だからフランソワーズを傷付けないでくれ」 『どうして？そんなにこの人が大事？』 徐々に、フランソワーズの首に掛かる力が弱まっていく。 「早くその手を離して。こっちにおいで」 『……ジョー……』 雛子がとまどったように、ジョーとフランソワーズを見比べていた。 「…ジョー……だめ……」 ジョーの目が、素早くフランソワーズを見た。 いつもと変わらない優しい茶色の瞳で。 「ひなちゃん。僕と一緒にいたいって、そういったよね」 ジョーの声は穏やかだった。 雛子に対する、負の感情など持っていないかのように。 『……ジョー、私が怖くないの？……みんな怖がるわ』 「君が、ホントにフランソワーズを傷つけることなんかできないって、僕には分かるから」 ジョーが微笑んだ。 それを見て、雛子は視線をさまよわせる。 「ね。ひなちゃん。僕はここにいるよ」 ゆっくりとフランソワーズから手を離した。 そのまま、ジョーの胸に飛び込む。 『ジョー……』 フランソワーズは、雛子につかまれていたのどを押さえてせき込んだ。 くっきりっと指の後が残っている。 ハインリヒがその彼女に駆け寄って支えた。 いつのまにか、彼らに対する力も弱まったようだ。 雛子とジョーを取り囲むように、ピュンマとジェットが入り口を塞いでいる。 果たしてそれに、意味があるのかどうかは分からなかったが。 「ひなちゃん、君はどうしたい？僕にどうして欲しいんだい？」 『一緒にいて……一人はいやなの……あの人のこと、考えないで。ひなのことだけ見てて……ひなのこと、忘れちゃわないで』 「僕が一緒にいたら、君は他の人を傷つけない？」 『約束…する……だから………』 ジョーの胸におさまったまま、雛子はしゃくりあげた。 彼はそっと雛子の背中をなでた。 「…みんな出ていてくれ。……フランソワーズを頼む」 「ジョー、おまえどうするつもりだよ。まさかヒナコの要求を」 「ジェット。今はジョーにまかせよう」 ピュンマがジェットを諫めた。ジョーにはなにか考えがあるんだ、と言外に伝えていた。 ハインリヒが、彼女の肩を押して促す。 「いや！」 フランソワーズがハインリヒの手を振り払った。 「離して、ハインリヒ！」 「フランソワーズ」 ジョーが、眉をひそめた。 「いやよ。ジョー。私のためだっていうのなら、やめて。ジョーが心からひなちゃんといることを望むのなら、私にはどうすることもできないわ。でも……」 『あっちへ行って、邪魔しないで』 雛子がきつい瞳でフランソワーズを睨む。 『あなたがいると、ジョーはひなのことを忘れちゃう。ジョーの中が、あなたでいっぱいになっちゃう！』 箪笥の上にあった物が、つぎつぎに畳の上に落下する。 「うわ！」 一番そばにいたジェットが慌てて飛び退いた。 避けたその一つが、まるで意志を持っているかのように宙を飛び、彼女の頬をかすめる。 「え？」 白い頬に、赤く筋が浮き上がった。 つぎにぴりっとした痛みが、現れる。 『本当だもの。だから、あなただけはここにいちゃダメ！ジョーがいいって言ってるんだから、いいの！それがたとえ、あなたのためだって。ひなと一緒にいてくれたら、それでいいの！今までひなは一人だった。だれも一緒にいてくれなかった。私、もう間違えない』 それと同時に、ぴしぴしと、高い音を立てて窓ガラスにひびが入っていた。 最初に気付いたのは彼女だ。大きな音と共に一斉にガラスが内側に向かって、不自然な形にたわんでいた。 それを口にするまもないうちに、ガラスは何かに押し込まれるように、大きな音とともに破裂した。 その鋭い切っ先のすべてが彼女の方に向いている。 「あっ！」 間に合わない！ 誰もがそう思った瞬間、体一つ分離れた場所に、体全体で彼女を抱きしめたジョーがいた。 仲間たちがほっと息をつく。 とっさに移動したものの、すべての破片を避け切れることはできなかったようだ。 彼の白いパジャマの背が、いくつか小さく赤く染まっていた。 「ジョー！！」 彼の腕の中で、フランソワーズが驚いたように声を上げる。 「フランソワーズ、大丈夫？」 尋ねる声は優しかった。 小さく頷くのを確認して、ジョーは身を起こす。 ぱらぱらと、ガラスの破片が落ちた。 細かく砕けたガラスの粉が、彼の背にも髪にもきらきらと光っていた。 彼の指が、フランソワーズの頬を拭う。 雛子が、今にも泣きそうな潤んだ瞳でそれを見ていた。 ぴくりとも動かない。 「ひなちゃん！」 いつになく、激しい声で叫ぶジョーに、雛子がびくりと震える。 ジョーから目を逸らし、自分の足元を見つめた。 「どうして……！僕と約束したじゃないか…」 「雛子とかいったな」 ハインリヒがジョーの言葉を遮るように、口を挟む。 『……』 雛子はその視線をハインリヒに向けた。 「お前はこれで、満足か？」 『どういう意味？』 「…見てのとおり、ジョーは、彼女のことをとても大切にしている。雛子はそれでもいいと言ったな？一緒にいてくれるのなら」 足元をじっと見つめたままだ。 「だが……彼女と離れたらどうなる？ジョーの気持ちは、ますます会えなくなったフランソワーズに向かって、雛子のことは忘れてしまうかもしれない。それでもいいのか？それでも、満足できるのか？そこにジョーがいてさえくれれば」 雛子は答えない。 「いくら雛子がフランソワーズのことを忘れてくれと頼んでも、ジョーがそれを約束しても、本当の気持ちはとめられない。お前なら、それがわかるはずだ」 ハインリヒは雛子から目を離さなかった。 「ジョーはそこにいても、雛子のことを見ていないかもしれない。それでもいいんだな？」 「ハインリヒ……」 言いかけたフランソワーズを手で制する。 ジョーも、彼女を後ろにかばい、雛子に向き合った。 全員の厳しい目が、雛子に集中する。 『……どうして…どうして大事な人は、ひなを置いて、ひなの前からいなくなっちゃうの…？お兄さんはいてくれるって、そう言ったのに』 黙って見つめていたピュンマとジェットが顔を見合わせた。 『お兄さんと一緒にいたかった。同じ物を見て、笑っていたかった。あなたみたいに』 雛子が、ジョーの後ろのフランソワーズを見つめた。 涙をいっぱいに浮かべている。 『あなたははずるいわ。私の欲しかったモノ、すべてもってる。お友達。生きてる体。大人の体。人間の体。お兄さんの心。わたしにないものばっかり』 仲間たちは、息を潜めてその成り行きを見つめていた。 フランソワーズがくちびるを噛む。 『ううん、ちがうの……私、あなたがうらやましかった。……あなたになりたかった』 「ひなちゃん……」 そっととジョーの後ろから、雛子の前へと移動する。 それをジョーが制したが、彼女は首を振って、雛子の目の前にしゃがんだ。 「ジョーはあなたのこと、とても大切にしているわ」 雛子がまっすぐに、フランソワーズの青い瞳を見つめた。 「ジョーが、私に、あなたのことをうれしそうに話してくれたの。この場所が大好きな女の子の話。その子が、とっておきの場所を教えてくれると約束したこと」 ぽたりと雛子の足元に透明の涙がおちる。 「…ごめんね」 雛子にしか聞こえないほどの声で、フランソワーズがつぶやいた。 「…ヒナコは寂しかったんだな。だからジョーを気に入ったんだ」 ジェットがなんの気負いもなく歩み寄ると、大きな手でくしゃくしゃと雛子の頭をなでた。 黒くまっすぐな髪が、ジェットの手のひらで乱される。 雛子は黙って目を閉じていた。 「そうだな、ジョーも寂しがりやだからね。雛子ちゃんと似てるのかも。だからってこんな風に人を傷つけちゃダメだよ。みんな、分かってるんだから」 ピュンマが黒い顔から白い歯をのぞかせて、雛子の手にハンカチを渡した。 『…ひなのこと、怖くないの？』 「怖くはないな」 いつの間にかハインリヒも近寄ってきていて、雛子は仲間たちの真ん中にいた。 『どうして？ひなはお化けだよ。ずっとずっとここにいる』 「なんでかな。ひなちゃんだからかもしれないね」 ジョーが笑う。 雛子はまた涙が出てきて、ピュンマに借りたハンカチを濡らした。 『ずうっと前から、ひな、この家を見ていた。大きな家が建って、子供が産まれて……大きくなって……ずっとずっと見てきた……。夏には子供がたちが虫取りに、秋には木の葉を拾いに、冬にはかぶった雪をすくいに来た……いつもそばにいたの。ずっと一緒に遊びたかった。ずっとずっと大切にしてたの。この家族を……今はもう、誰もいない……』 雛子が割れたガラスの向こうを見ていた。 『あの時、気がついたら、この姿でここにいたわ。うれしくて、うれしくて……いつも遊びに来る子供の所に行った。でも……怖いって……雛子はお化けだって………みんな逃げるの。もっともっと悲しかった。言葉が通じるのに、一緒に遊べるのに……それなのに……やっぱり一人だった』 俯いた雛子を、ジョーがしゃがんで、そっと抱きしめた。 『…あの時、私が好きだったあの人たちは、私のことを惜しんでくれたかしら。ずっと忘れないでいてくれたかしら。私がここにいたってこと、覚えていてくれたかしら』 「当たり前よ。みんな、あなたのことを忘れたりするわけないわ」 ちりん…と小さな澄んだ音。 「きれいな音ね」 『…あの子がくれたの。ずっと昔。私の枝につるしてくれた。風鈴のかわりだって』 優しく笑って懐から鈴を差し出した。綺麗な銀色に輝いていた。 「…僕らはいつまでも忘れないよ。君がここにいること」 ジョーが腕の中の少女の瞳をのぞいた。 『本当に？忘れないでいてくれる？お兄さん、もう私が分からないかも。見えなくなったら、私のことなんか忘れちゃうかも。……私もお兄さんのこと、忘れちゃうかも』 「忘れないよ。ずっと覚えてる。毎年、君に会いに来るよ。フランソワーズも、みんなも一緒にね」 雛子はおずおずと目を彼女に向けた。 『お姉さんも？私、お姉さんにひどいことした。それでも？』 「もちろんよ。ひなちゃんのこと、忘れない」 雛子がジョーの腕に顔を埋めていた。しばらくそのままでいて、そっと離れる。 『じゃあ、約束……』 彼の手の中に、銀の鈴を落とした。 『ひな、待ってる……みんながいるから、もう平気』 辺りがゆっくりと明るくなってくる。 のんびりとした山鳩が鳴いていた。 雛子は外を眩しそうに見て、また全員の方に向き直った。 『みんなと会えてうれしかった。……お兄さん、ありがとう』 割れた窓から差し込む朝の光の中に、少女の体が溶け込んでいくようだ。 徐々に薄れる輪郭。だが、その少女は微笑んでいた。 ゆっくりと、その大木の中に吸い込まれていった。 ちりん…と小さく鈴の音が聞こえた気がした。 しばらく、全員がその場から動かなかった。 「……幸せになるといいな、ヒナコ」 「なれるだろ。もう、大丈夫だ」 「でもなぁ、お化けなんて信じてなかったけど、ホントにいたんだな。ヒナコみたいなのは、なんていうんだ？」 「精霊って言うのが、正しいんじゃないかな」 窓から雛子の木を見上げながら、ピュンマがつぶやいた。 「そっか。すげーな、ジョー。精霊にまでもてちまって。なあ、ハインリヒ？」 「あれは雛子だ。化け物でも精霊でもない」 「この期に及んで、まだ認めねえのか？まあ、いいけどよ。とにかく、暑くなる前にちょっと寝ようぜ。誰かのおかげで、夜中に起こされてそのままだからな」 大きくのびをしてジェットが言った。 「そうだな」 「あ、でもジョーはどうする？この部屋じゃ寝られないよ。それにしても、片づけるのが大変そうだな」 ピュンマの言葉に辺りを見回すと、ガラスの破片が、朝日を浴びてきらきらと輝いていた。 「…ま、ジョーは、ジョーでなんとかするだろ、俺は寝る。じゃあな」 ちらりと視線をよこして、ハインリヒが背を向けた。 「そうだな。じゃあ、お休み」 同じように二人の姿を見て、ジェットとピュンマもその後に付いていった。 あっというまに取り残されたジョーは、手の中の鈴を握り直して、フランソワーズを見る。 フランソワーズもまた、ジョーを見ていた。 「よかったね」 頬の傷を親指で拭いながら、ジョーが笑った。 「そうね。でも心配したんだから」 「え？どうして？」 「もうっ！……ホントに覚えてないの？」 みるみるうちに空に日が昇る。 今日も暑くなりそうだ。 鳴きだした蝉の声。 庭には、朝顔が露に濡れた大きな花を開かせている。 青いツユクサもひっそりと咲いていた。 片づけをあきらめた部屋から、二人が出ていく。 ふわりと涼しい風が、家の中を通り抜けていった。 数日後─── 「ええっ！ホントに？ホントにあの家に1週間もいたの？」 「ああ。好きなだけ使っていいって言ったろ？ありがとな」 ジェットが、小さな鈴がついた鍵を喫茶店のテーブルの上に置いた。 「いくら、ジェットやお友達が強くたって……すごいわ……行きたいって人も、だいたい1日で帰ってくるわよ。その……なんか見なかった？」 「なにかって？」 ジェットの向かいに座った美しい女性は、言いにくそうに上目遣いでジェットを見た。 「その……変なもの…」 「変なものは見なかったぜ。とびきりかわいい、小さい女の子ならいたけどな」 ジェットがにやりと笑った。 「ま、また来年、必ず貸してくれよ。じゃあな」 言い置いて、席を立つ。 ──ちりん また、どこかで鈴の音が聞こえたような、そんな気がした。 |