（１） 「意気地なし！」 パシッ――！ 君の声が耳に届くと同時に、左頬に痛みを感じた。 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。――情けないことに。 僕の目に映る君は、今にも泣きそうになるのを懸命に堪えていた。 でも、その蒼い瞳には涙が溢れている。 （僕が、泣かせた――？） その事実に、愕然とする。 今にして思えば、相当間抜けな話だ。 あんなこと口にすれば、彼女が傷つくのは当然なのに。 それすらも、あの時の僕は考えられなかった。それすらも、考える余裕はなかった。 ――それくらい、彼女に甘えていたのだ。 「……っ！」 彼女は身を翻し、僕から離れていった。 僕は追いかけもせず、ただ、呆然とその後ろ姿を見送るだけだった。 「綺麗ね…」 君は振り返って、僕に微笑みかけた。 僕もつられて微笑み返す。 「うん…。日本の秋は紅葉が綺麗なんだよ」 目の前には赤と黄色のグラデーション。 風がその枝を揺らすたび、紅葉はひらひらと舞い降りてくる。 君は足元に落ちた一枚を拾い上げ、嬉しそうに眺めていた。 「秋は、紅葉…ね。そういえば、春は桜の花が綺麗なんでしょ？」 「うん。桜の花がいっせいに開いて、周り中が淡いピンク色になるんだ。 …それは、見事だよ」 そう、口にしてみたものの、実際、当時の僕はさほどこの世界が美しいとは思っていなかった。 ましてや、命を懸けてまで守りたいなど、考えもしていなかったのだ。 ふわり――そう表現するのがぴったりの微笑が僕に向けられる。 そして。 「こんな歌、知ってるわ」 優しい声で詠み始める。柔らかなメゾ・ソプラノ。 ――世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 「そんな歌、よく知っているね」 僕は驚いた。記憶をたどる。ああ、そうだ。確か教科書に載ってた…古今和歌集だ。 フランス人の彼女が、こんな歌を知っているなんて。 ましてや、日本に来てまだ日が浅いのに。 ――この世の中に桜の花がなかったら、春の日の心はさぞかし穏やかなものになるだろうに…それくらい、桜の花は私の心を捕らえている。 「この歌しか知らないわ」 恥ずかしそうに言う。 「私の友人にとても日本びいきの人がいたのよ。日本の文化にも詳しくて…。この歌はその人に教えてもらったの」 目が伏せられ、長い睫毛が影を落とす。 「私もいつか日本に行ってみたいと思ってたけど…こんなに早く来るなんて思ってもみなかったわ…」 最後は独り言のように言った。 ――トクン 君は再び、鮮やかな色彩を放つ紅葉に目を向ける。だが、その蒼い瞳にはそれらは映し出されていなかったろう。彼女は遠くを見ていた。遠い――時間さえも遡らせる、遠い場所。 遠い――人。 ――トクン その『歌』を教えてくれた人のことを考えているのかい？ その人が、君にとってどんな存在だったのか、僕は知る由もないけれど…。 ――トクン どうしたんだろう？ 先ほどからの胸の痛みに、僕は戸惑っていた。 切なくて、苦しい。こんなことは初めてだった。 ただ、一緒にいる僕の存在すらも忘れているかのような、彼女の遠い瞳に…胸が痛かった。 「いつか…」 君をその遠い場所から連れ戻したくて、僕は声を掛けた。 はっとして、僕を見つめる。その瞳は潤んでいた。 「いつか、連れていってあげるよ。…春になったら、桜の花が綺麗な場所へ」 僕のこの言葉を、君はどう受け取ったのだろう？ にっこりと笑って、彼女はこう言った。 「ええ。楽しみにしているわ」 初めて人を殺したことを、僕は一生忘れないだろう。 僕の手によって、ひとつの人生が終わる。命が流れる。 そして、それは仕方がないことだ、と自分に言い聞かす。 相手を殺さなければ、自分が殺されるのだから、と。生き残るには仕方がないのだと。 これは、正しい戦いなのだと。 ──本当に？ 仕方がないのか？正しいのか？ 何が正しくて、何が間違っているのか、判っているのか？ 判らない。判っているのは、もう元の身体には戻れない、ということ。戦い続けなければならない、ということ。 この身体になって、初めて目覚めたとき──襲い掛かってきたロボットたち、戦車、戦闘機……何が起こったのか理解できず、判らないまま、戦い、そして『仲間』に引き合わされた。 仲間とあの島を脱出し、追っ手を退け……そして、自分たちと同じ境遇の者──仲間と言ってもいいかもしれない──の刺客を倒し。 無我夢中だった。自分たちが生き残るために。 そして、ある日、自分の手を見つめ、愕然とする。 ――僕の手は何色だ？ （２） 疲れていた。 続く戦いの日々――むろん、身体は疲れることはない。疲れていたのは…僕の心。 「何故、僕は、僕たちは戦い続けるのだろう…何のために、誰のために？」 繰り返される自問。答えは見つからない。 いや、答えは…判っている。でも、それを肯定することは、受け入れることは、あのときの僕には出来なかった。 そして、あの日。 今までの中でも、最も苦戦を強いられた戦い……相手。 止むことのない爆撃。その間をぬってでの白兵戦。敵も味方も判らなくなるほどの…泥沼化した戦い。 あまりの戦闘の激しさに、心が悲鳴をあげ始める。 ──だめだ。戦わなければ……守らなければ ──何を？ どこかで、何かが爆発する。それとともに誰かの悲鳴が聞こえてくる。 ──何のために？ ──どうして、僕が？ 自分で望んだことでもないのに。 躊躇いと迷い。 そして、僕は、一瞬、自分の心を手放した── どのくらい時間が経ったのだろう。 「…ひどい」 目の前の光景に愕然とする。 おびただしい死体の数。流れる血…の海。 （これは…僕がやったのか？） 自分の手に握られている、赤く染まったサバイバル・ナイフ。 （いつのまに、こんなモノを…スーパーガンは…？） ――ああ、そうだ。銃を戦闘中に落として…これは、敵から奪って… そして…この惨状。 （無意識に…こんなことをやったのか？僕は…いくら敵とはいえ、中には生身の人間もいただろうに） そんな彼らを、僕は殺した。おそらく、何のためらいもなく。 ほんの一瞬、自分の心を手放した隙に。 ぞく―― 身体が戦慄を覚える。これまでにない、恐怖――。 そう、死を覚悟したときさえ、こんな恐怖は感じなかった。それ以上の恐怖。 怖かった。 自分自身が、怖かった。 こんな思いまでして、戦わなければならないのか？ そして、繰り返される自問。 ――何のために？ ――誰のために？ 「あの戦闘時の００９は…すさまじかった。何て言うのか…『戦鬼』というモノが存在するなら、まさにあんな姿をしてるのか…と。正直言って…俺は怖かったね。」 「よせ」 「そうアル。００９が戦ってくれなかったら、ワイら、全滅してたかもしれないアル。…それくらい、今回の戦闘は大変だったアル…よ」 「…誰も彼を責められないよ。僕がもし、彼くらいの戦闘能力を持っていたなら…僕がその立場にたっていたかもしれない」 「そう…今、００９、誰より…傷ついてる」 偶然聞こえた、仲間達の会話。 彼らの中に入ることも出来ず、その場にいたことに気づかれないよう、そっと背を向け外に出る。 ――戦鬼。 ああ、まさに今の僕にぴったりの言葉だ。 かばってくれた仲間達の言葉の裏にも、無言の僕に対する声を感じる。 「お前は、ただの人殺しだ」と。 いっそ、そう言ってくれたら…罵ってくれたら、楽になるかもしれない。 自分自身に対する、これまで以上の嫌悪感、憎悪――そして、恐怖。 ――こんな「僕」は殺してしまいたい。僕自身の手で。 …それが出来ないなら── 誰か、「僕」を殺してくれ…お願いだ。 ザザ―― うち寄せる波が僕の足元に届く。 自然に、研究所近くにある海岸に足を向けていた。 穏やかな満ち引きを繰り返す波。 ザザ―― この規則正しい波音を聞いていると、落ち着く。――いつもなら。 だが今はこれらの音は心に届かず、このどうしようもない空虚な心を持て余すだけだった。 サク…サク… 背後から近づいてくる砂を踏む足音。そして、いつもの優しい声。 「ジョー、ここにいたの…。博士が呼んでるわ。研究所に戻りましょう」 僕は微かに振り返る。 そこには、綺麗な亜麻色の髪と、優しい蒼い瞳を持つ少女の姿。 判った…と言おうとする僕の意志に反して、出てきたのはこんな言葉。 「…何のために？」 「…え？」 「また…戦いのために…？だから、研究所へ戻れ…と？」 「ジョー…」 「もう…ごめんだ」 再び、海に視線を戻す。 「僕は、もう戦いたくない…これ以上戦うと…」 ――また、「僕」が出てきてしまう…。ただの人殺しの僕が。 「でも…私達が、戦わなければ。世界の平和は…何の罪もない人たちが…」 「そんなのは、きれい事だ――！」 振り返り、彼女の前に向き直る。 ――ヤメロ 「僕は…君とは、違う。僕はこの『世界』なんて、愛しちゃいない…愛せる…はず、ないだろう？」 ――ヤメロ。ソレ以上言ウナ （生まれたときから、この『世界』は僕に背を向けていた…一度だって愛された記憶なんて、ない。そんなもののために） 「ましてや、守りたい、なんて。一度も思った事なんて、ない…それなのに、君は、みんなは、僕に『守れ』と言うのか？自分の手を血で汚してまで――！」 （こんな思いまでして…守れというのか――！？） ――ソンナコト、彼女ニ言ッテ、ドウスル？彼女ガ、傷ツクダケデハナイカ――？ 心のどこかに響くもう一つの声。 でも、この時の僕にはこの言葉は何の意味も持たなかった。 「僕の手は…すでに真っ赤に染まっている」 手をかざす。何故か、笑いが込み上げてきた。 「ジョー…もう、止めて」 震える声で、彼女が言う。 「世界の平和を願うなら…まず、僕を始末した方が良さそうだよ。僕はこの先…敵ばかりでなく、君たちにまで危害を加えるかもしれない。僕は…自分を守るためなら…どんな非情なこともできてしまう…ただの人殺しだから」 「もう、止めて――！」 彼女の声も、心には届かない。 そして。 自嘲めいた笑顔で、僕は言った。 「…そうなる前に…フランソワーズ。僕を殺してくれるかい？」 「――！」 その瞬間、僕の左頬に痛みが走った。 走り去る彼女の後ろ姿を、僕は呆然と見送った。 脳裏に浮かぶ、彼女の涙。 胸が痛かった。その原因を作ったのは、間違いなく自分自身ということが判っているのに。 どうすることもできない。 彼女を追いかけてどうする？何を言う？ 判らない── ただ、胸が痛かった。 「おお、００９」 研究所に戻った僕を、博士をはじめとするみんなが迎える。 その中には、彼女の姿はなかった。 「あの、博士。００３は？」 さりげなさを装って、尋ねる。 「どうも疲れていたようじゃから、ワシが無理やり休ませた。本人は、ここにまだおる、と頑張っておったがの。今回の戦闘は、かなり、つらいものがあったから…の」 「お前サンも、つらかったろうが。彼女もかなりのものだったと思うぜ。目の前であんなことがあったんだ」 ──あんなこと？ 嫌な予感がする。 「何があったんだ？」 ハインリヒは、少し顔をゆがめる。 「…子供が殺されたんだ」 ──彼が言うには……彼女は戦闘中、親とはぐれた子供──兄妹だったらしい──を助け彼らをかばいながら、安全な場所へと連れて行こうとしていた。もちろん、彼女の能力──目と耳を駆使しながら。しかし、敵の攻撃は彼女の能力だけではどうすることもできないほど、激しかった。そして、彼女は彼らをかばいきれず……結局── 「俺たちが駆けつけたときは、もう遅かった。ひどいもんだ。一人は、たぶん兄の方だ…爆撃でやられたらしく、身体の一部を残して、跡形もなくなっていた。そして、彼女は身体中を撃たれたらしい…血だらけの妹を抱きしめて……泣いていたよ。声も上げず、ただ泣いていた。そして」 一度、言葉を切る。言いにくそうに 「そして……傍には、BGの兵士の死体。撃たれて死んでいた。彼女が撃ったそうだ」 ──何てことだ。 そんなことがあったなんて…… 「そんなこと、彼女は一言も」 「言わないだろう。彼女なら、どんなにつらくても、苦しくても……自分の気持ちより周りの気持ちをまず考えてしまうから。つらいのは、戦っているのは自分だけじゃない、とすべて、自分の胸に秘めて。……このことだって、あのとき駆けつけた俺たち、俺とピュンマとジェロニモだけが知っていたことだ。それを博士に報告した。……悪い。お前にいままで言わなかったのは、彼女に口止めされてたからだ。今回の戦闘で、つらそうにしているお前を見て、彼女が言った。『００９が落ち着くまで、このことは報告しないで』と」 「……」 ハインリヒは、僕の目を覗き込む。 「誤解するなよ。もし、彼女が平気そうに見えたのだったら──それは、彼女の気持ちの切り替えが早いから、じゃない。それだけ周りのことを気遣っているからだ。俺たちに心配かけまいと。たぶん彼女は、まだ……引きずっている」 （判っている……そんなこと） 違う。僕は判ってなかった。彼女の何も判らず、いや、気づかず、自分のことしか考えず、どうしようもない気持ちを彼女にぶつけた。 そして、より彼女を傷つけた。 めまいがした。自分の愚かさに。弱さに。 それなのに、彼女は何も言わない。仲間にも、僕が彼女に何を言ったかなんて……どんなひどいことを言って傷つけたなんて、言ってないのだろう。 吐き気もする。自分の情けなさに。甘さに。 もう、彼女は僕のことを許してはくれないだろう。 僕はどうしたらいい？どうしたら……。 何も考えることができなくなり、僕は途方にくれた。そして、これまでにないほどの自己嫌悪に再び陥ることになる。 それからの数日間。 あのときの戦闘など、まるで嘘のような穏やかな日々。 ゆっくりとした時間が流れる。 ただ、僕の心は決して穏やかなものではなかった。 いや──そんなこと、許されるはずがなかった。 あれから、彼女とはまともに口をきいてない。 ハインリヒの話を聞いてから、すぐに彼女の部屋へ足を向けた。 躊躇いがちに、ドアをノックする。 返事はなかった。 疲れて眠ってしまったのかもしれない。 ただ、僕にはそれが彼女の無言の拒絶に思えてならなかった。 それ以上どうすることもできず、僕はその場を離れた。 そして、翌日。 彼女はいつものように、みんなに優しい笑顔を向ける。 ただ僕に対しては、どこかぎこちないものがあった。 特に避けられているわけではない──ただ、僕と彼女の間に何か見えない壁のようなものを感じた。 それがたまらなく寂しい──そう、考える権利さえ今の僕にはないのかもしれないけれど。 ときどき、ひとりで考え込んでいる彼女の姿を見かけた。 だが、僕は声をかけることができない。その勇気さえなくしてしまった。 （どうして…僕は） ただ時が過ぎていく。僕の心に何の変化も訪れないまま。 （３） そして──あの日。 コンコン―― ドアをノックする音。 返事をせずにいる僕に、躊躇いがちな声が聞こえた。 「ジョー、いるんでしょ？」 彼女だ。 ――トクン 心臓が音をたてる。 慌ててドアの前に来たものの、どうしていいか判らず、おろおろする僕の耳に、また彼女の、今度は何か覚悟したようなはっきりとした声。 「そのまま、聞いて。…連れていってほしい所があるの。今から支度するから、あなたもそのつもりでいて。支度が出来たら、また、声を掛けるから」 （連れていって欲しい…所？） そっとドアを開ける。 僕の目に映る彼女の不安そうな表情。だが、次の瞬間、にっこりと笑って言った。 「約束だったでしょ？桜を見に連れてってくれるって」 空は青く晴れ渡り、風はあたたかい。外に出かけるには絶好の麗らかな日。 （そうか。もう、桜を見る季節、なんだ） この間までの日々とは、まったく対照的な状況に、何故だか笑い──自嘲めいてはいたが──がこみ上げてくる。 （彼女は何を考えているんだろう？） 連れだって来たものの、道中、彼女は必要な事以外、一言も口をきかなかった。 僕の方も、彼女に対してどう接していいか判らず、終始無言だった。 重苦しい沈黙。 しかし、淡いピンクの光景を見た瞬間、そんな雰囲気は払拭される。 「わあ…綺麗」 川沿いに立ち並ぶ桜の木々。天候がいいこともあって、人通りも多い。 幼い子供を連れている者。若い恋人同士。花より団子と、昼間からすでに酔っている者──平和そのものの光景。 すでに花は散り始めていた。ピンクの花びらが風に吹かれるたび、雪のように降ってくる。 ひらひら…ひらひら、と。 その散り際の潔さ──誰かが死を連想させる、と言っていた。 散り際の潔さは、死に際の潔さ。 彼女は、この光景を見て、何を感じるだろう。 隣で静かに桜を眺めている彼女の横顔を、僕はそっと見る。 やがて、彼女はぽつりと呟いた。 「…どうして、私が」 「フランソワーズ？」 「何故、私だったの？どうして、私がこんな目に合うの？」 ゆっくりと、桜から僕へと視線を移す。 「いつも、私の頭から離れない、想い…」 ふわり。いつもの優しい…でも、どこか淋しさを感じる微笑。 「私も、同じよ。だから、あなたの言葉を聞いたとき、いままで自分が誤魔化し続けていたものが、目の前にさらされたようで…怖かったの」 言葉を切り、目を伏せる。 「あなたをぶったのは…私の八つ当たり…よ。でも…」 ザア── 一際強い風が吹き、桜の花びらを散らす。 「でも、謝らないわ。そんなことしたら、私は自分を支えていられなくなる。私は私の存在を否定しない。否定したくない。だから」 僕から少し離れ、そんな桜吹雪の中に彼女は身を置く。亜麻色の髪が風にあおられる。そんなことも気に止めず、頭上の桜を見続ける君。 「綺麗ね…」 言葉を切り、僕を見つめる。 「あれから、ずっと考えていたわ。私たちが何のために戦っているのか」 「フランソワーズ！それは…」 「聞いて。あなたの言うとおりよ。私たちは、いいえ、少なくとも私は、この世界の人々を守りたい、なんて考えていたわけじゃないわ…」 そして、はっきりとした口調。 「自分のためよ。この運命に負けたくないからよ。どんなにつらくても、…どんなに死ん だほうが楽かと、思うときがあっても。だから、私は戦う。それに」 もう一度、視線を桜に戻す。 「単純なこと…。私はこの世界が、好きなの。もちろん、美しいものばかりじゃないことは知ってる。人の心と同じで。でも、今は素直に守りたいと思ってる。ただ、それだけなの」 それに、大切な人たちも守らなきゃね、と彼女は笑う。 ──大切な人。 もちろん、あなたたちよ。という答えが返ってきた。 「桜の花…こんなに間近で見たのは初めてだけど。この花の潔さ、好きよ。だって、また来年ここへ来ようと、この見事な花を見に来ようと思うもの。生きるために、前に進もうと思うもの」 ──生きるために。どんなにつらくても。 彼女のその言葉に、はっとする。 この花に僕は、「死」を見、君は「生」を見出すのか？ 君はなんて強いんだろう。 見かけはこんなにも華奢で、はかなげで…… でも、心は誰よりも強い。 それに比べ、僕のこの弱さはどうだろう。 自分で自分を否定し、自分ではどうしようもなくなった感情を君にぶつけた。 「意気地なし」──君が僕に言った言葉。そう、まさにそのとおりだ。 「そんな、感情…日本人特有のものだと思っていたよ」 くすり、と笑う。 「こんなフランス人がいても、いいじゃない」 ──僕も前に進めるだろうか？ 君は、優しく僕を見つめる。 ──進めるわ。あなたも前を歩いていける。 君の瞳がそう言ってくれる。 そして、僕の手をとる。 ──一緒に歩いていきましょう。 君のあたたかさが、手を通して、僕の心の中に入り込んでくる。 「ジョー？」 気づくと、僕は泣いていた。涙がとめどなく流れる。それをぬぐうこともせず、僕は泣き続けた。 彼女は何も言わなかった。ただ、黙って僕の手を握りしめていた。 ──君を守りたい。 素直にそんな想いが浮かぶ。 僕の心を癒してくれた、君。僕はあんなにも君を傷つけたのに。 ──君を守りたい。 君を、君の愛するこの世界を。 今の僕には、この世界を、人々を守るなんて、考えられない。それはあまりにも重過ぎる。 でも、それで君の笑顔が守られるなら。 僕は守りたい──自分の持ちうるすべてをかけても。 （４） 彼は、ふっと目を開ける。 カーテンの隙間から差し込む月の光。 身体を起こし、左手で髪を掻き上げる。 （ああ、夢だったのか。…随分となつかしい…夢だったな） ホッとしている自分が可笑しい。 ――どうしようもなく、弱かった。 その弱さのために、大切な人を傷つけることしか出来なかった僕。 隣に眠る人を、愛おしげに見やる。 そして、その顔にかかる亜麻色の髪をそっと掻き上げた。 「…ん。ジョー？」 蒼い瞳がゆっくりと開かれる。 「ごめん。起こしてしまったね」 彼女は、にっこりと微笑み、ううん、と首を横に振った。そして、窓の方を見る。 「月の光が明るい夜ね。何だか寝直すのがもったいないわ」 「…ああ。きっと……そうだ。フランソワーズ」 彼はいたずらっぽい瞳で、彼女の顔を覗き込む。 「……？」 「ちょっと、外に出てみようか？」 「え？」 銀色に輝く月。 その柔らかな光を受けて、淡いピンクの花々が昼間とは違った表情になる。 どこか神秘的で、どこか艶めかしい光景――。 ギルモア研究所から、さほど遠くない――小高い丘の上。 元々人気のない場所に加えて、真夜中ということもあって、あたりには誰もいない。 そこに、ひっそりと立っている大きな数本の桜の木々。 「わあ…」 抱いていたジョーの腕から離れると、フランソワーズは感嘆の声をあげる。 そして振り返り、彼を見つめた。くすっと笑う。 「窓から抜け出すなんて…子供みたい」 「誰にも、邪魔されたくはなかったから。二人だけで見に来たかったんだ」 「…そうね。でも…綺麗。明るいときの桜も綺麗だけど、夜の桜は…また違っていて…何だか妖艶な感じがするわ」 そう言って桜の木を嬉しそうに見上げる彼女の横顔を、彼は眩しそうに見つめる。 ふ、とフランソワーズがジョーの方を向いた。 「そんな感情は、日本人特有のものだと思ってたよ」 何となく、彼女に見とれていた自分を誤魔化したくて、彼は慌てて言う。 「あら？でも、こんなフランス人がいたっていいじゃない？」 「そう…だね」 そう相づちを打ちつつ、感じる、奇妙な既視感。 どこかで交わされた同じ会話。 （そう…だ。さっき見た夢だ） どこからが、過去の回顧で、どこからがただの夢、だったのか。 ――いや、そんなことは、どうでもいい……。 昔、僕が自分の弱さゆえに彼女を悲しませ、そして、彼女のおかげで生きる希望を見いだせたのは、間違いのない事実なのだから。 「さっき、ね。昔の夢を見たよ。君にひっぱたかれた時の…」 優しくフランソワーズを見つめて、言った。 「ジョー？」 「あまり…いい夢とは云えない…な。でも、『あのとき』がなかったら、きっと僕は前には進めなかった」 ――今の僕もいなかったかもしれない。 「ごめん。変な話をした…。気にしないで」 彼女は何かを言いかけたが、少し笑って頷いた。 そして、ジョーはフランソワーズに近づき、そっと背中から抱きしめた。 しばらく彼女の亜麻色の髪に顔を埋めていたが。 そっと耳元に囁く。 「君は、いつから僕のことを好きになってくれた…？」 「な、なあに？突然……」 フランソワーズの頬がうっすらと桜色に染まった。 抱きしめられたまま、首だけを動かしてジョーを見る。 「答えて」 「そんなこと…そんな昔のこと、忘れたわ」 「昔のこと？」 「そう、あんまり昔過ぎて、いつからだったか忘れちゃった」 いたずらっぽく笑う。 ジョーは少し不服そうな顔をしたが、次の瞬間、ふ、と笑い、再び彼女の耳元に囁く。優しく、甘く。 「…フランソワーズ」 ――トクン その声を聞いた途端、心臓が音をたて、彼女の身体からすべての力が抜ける。立っていることも出来ず、その場に崩れそうになる。 「おっと」 慌てて、ジョーがフランソワーズの身体を支え、抱き上げる。 彼女を自分の方に向かせ、にっこりと笑った。 「大丈夫かい？フランソワーズ」 「…今の。わざとでしょ？」 「…なにが？」 「もう…」 頬を染め、フランソワーズはジョーを睨む。軽く、そして、甘く。 （何て声で囁くのよ。まだ、胸がどきどきいってるわ） ため息をひとつ。 「もう、降ろして。大丈夫だから」 彼は彼女の言うとおりにする。 そして、すっと、手を差し伸べた。 「少し、歩こうか」 「ええ」 その手を取り、そっと握る。 彼も握り返した。 ゆっくりと歩く。その歩みに追随する、明るく輝く月。 風がそよぎ、桜の花びらがまるで雪のように、２人に舞い降りてくる。 「…今年の桜の花も、もう終わりね」 「ああ、来年、また見に来よう」 「ええ。昼の桜は、みんなで。夜の桜は、また、二人で」 「フランソワーズ」 ふふっと彼女は笑い、呟く。 「…また、来年。そして、また来年。これからも、ずっと…」 ひらひら、ひらひらと桜は舞い落ちる。 ――ジョー…さっき私があなたに言ったこと。半分は、本当。でも、半分は、嘘。 あなたを好きになって、随分月日が流れたけど。 私自身、いつからあなたに特別な感情を抱くようになったか、判らないの。 いつの間にか…あなたは私の心の一番深いところに入り込んでいた。それは、自然に。 この想いは、昔から変わらない。そして、これからも。 あなたに逢えて良かった。 どんなにつらい運命も、あなたがいたから乗り越えてこれたのよ。 あなたと一緒に歩いてきたから、自分の運命に負けずに生きてこれた。 これからも一緒に歩いていきましょう……約束よ。 「寒くない？フランソワーズ」 「いいえ」 ジョーは、彼女を優しく見つめる。 ――フランソワーズ。 僕の人生は、君に出会ったときから動き始めた。 それまでの無彩色の世界から、色鮮やかな世界へ変化していった。 そして、『あのとき』から、僕は君を守る、と誓った。君を、君の愛するこの世界を。 その想いは今も変わらない―― いや、『あのとき』の僕、あの夢の中の僕と、今の僕と違っている点が一つある。 それは、僕にとってもこの世界は愛する対象になったこと。 『あのとき』から、少しずつ、少しずつ。 この世界は僕にとって、美しいと感じられるものになっていった。心から守りたいと思うものになっていった。 フランソワーズ、君のおかげだ。君と一緒に歩いてこれたから。 僕の罪は一生消えない。そんなことは判っている。 でも、それ以上に。守りたいものがあるから。愛するものがあるから。 だから、僕は前へ歩く。君と一緒に。 「綺麗だね」 空を仰ぐ。 今宵は桜月夜。 ゆっくりと、優しく、二人の時間は過ぎてゆく── 　 了