| ガソリンスタンドでもらった割引券を手に、ジョーは車を走らせていた。 後部座席にはハインリヒと、不安そうな顔をしたフランソワーズがいる。 「風呂」とは”体の汚れ落し””無防備な体制になるので室内で一人で入る”としか発想のないフランス人にとって、日本の温泉は危険と感じるようだった。何かあったら助けるからと約束して、係員にフランを部屋付きの露天風呂まで連れて行ってもらう。やがて、笑い声が響いてきた。ジョーは安堵のため息をついた。 部屋を出ると、浴衣に半纏姿のハインリヒが疲れた表情であんま椅子に座っていた。周囲には“お嬢様方”が懇切丁寧に機械の説明をしたり、日本茶を持って来たり、渡すついでにさりげなく体に触れたりしている。断わる隙のない、親切というより威圧感が漂う。玄関を見ると、“○○生命保険成績優秀者慰労旅行会ご一行様”とあった。 「ジョー。日本の温泉旅館には、２つのコミュニケーション手段があるそうだな」 唐突なハインリヒの言葉に、ジョーは面食らった。 「コミュニケーション手段？ 」 「『温泉卓球』と『浴衣でチークダンス』だ。古来より連綿と受け継がれ、今なお会社組織等、特に年配の男性上司に絶大な人気を誇っている」 「……誰から聞いたんだ」 「フロイライン達さ。折角温泉に来たんだ、俺達も一つやろうじゃないか」 せいせいした様子で椅子から立ち上がる。ジョーが渡されたラケットを取ろうとした時、ハインリヒがこう言った。 「ただ遊ぶんじゃ面白くない。勝者がフランとチークダンス出来る権利を賭けるってのはどうだ」 「あぁ。構わないよ」 屈託なく笑うジョー。ハインリヒが薄く笑った。何故か彼女達に歓声が上がった。 ７点先取一本勝負。ハインリヒ先番。正確にコーナーを突く巧みなショットにジョーは手が出ない。たまに返してもネットに引っかかる。ジョーが後悔しても後の祭だった。それにしても彼女達はハインリヒが決める度に何故大騒ぎをしているのだろう。 「きゃぁ！ 」 フランソワーズの悲鳴。ハインリヒのスマッシュが決まる。跳ねたボールの先にジョーの姿はなかった。 「どうしたんだ、フランソワーズ」 震えるフランが指差した先には、目を細めて温泉につかる猿達がいた。 「猿が、猿が湯加減を見てからお風呂に入った……」 そう、ここは猿と入れるので有名な温泉だった。係員もまさか客室の露天風呂まで猿が来るとは思わず、説明を忘れていたのだ。 「大丈夫。猿も寒いから温泉に入りたいだけだよ。悪さはしないから」 「でも、獣と入浴は嫌よ。そろそろ体も温まったし、上がるから」 急いで風呂場を出ようとするジョーに、フランが声をかけた。 「チークもいいけど、一緒に散策がしたいわ。私はそういうコミュニケーションが好きよ」 「えっ、知ってたの」 「あれだけ騒がれれば聞こえるわよ。それに、ハインリヒは彼女達のお相手をしないと多分離してもらえないわ。だから、今は２人で行きましょう」 そう言ってフランはクスッと笑った。 卓球場に戻ると、ハインリヒは彼女達に取り囲まれていた。誰がどう訳したのか、「この外人青年が勝ったら私達の誰かを指名してチークダンスを踊ってくれる」ことになっていたのだ。名物の饅頭攻勢派、拉致監禁まがいの計画を密かに立てる一団、しゃにむに隣席確保に走る一派、ついでに生命保険の加入も勧めている。さすがのハインリヒも、この強烈至極なパワーには対抗出来ないでいた。 「おい、ジョー。勝負は俺の勝ちだぞ。ここはお前が代われ」 「アイドルは君だろう。じゃあ、僕はフランと散歩してきま〜す」 「おいっ、ジョー。逃げるな、俺も連れて行け！頼む！」 絶叫するハインリヒを背に、いそいそと出掛けるジョーであった。 fin. |