「まいったな」 彼は小さくつぶやいた。 ゆるやかな坂道を上った先の、丘の上の神社の脇。 左右に大きく枝を広げた老木がそこにあった。 ここなら絶対大丈夫。静かに花を楽しむことが出来るはず。 確証のない妙な自信を持って、彼女を案内してきたはずなのに。 春めいたあたたかな陽射しの日曜日。 大きな木の下には、たくさんの人たちが色とりどりのビニールシートを広げ、思い思いにくつろいでいる。 もちろん、そこにあふれるほど咲いた淡い色の花が目当てだ。 そして集まった人の大半は、赤い顔をして、手元の缶の中身を勢い良く煽っていた。 にぎやかな声、かけまわる子供たち。「静か」という言葉とは、およそ無縁だった。 『日本の春ってとても素敵ね』 そういう彼女に、どうしてもこの大木を見せたかった。 ずっと昔。まだ彼女の存在も知らなかった子供の頃によく来た、この丘。 あの頃はこんな花見客なんて、ほとんどいなかったのに。 こんなことなら、しっかりと調べてから来れば良かった。 それにしても、いつの間にこんなに人が集まるようになったんだろう。 すこしばかり山の方に入った所にある丘で、近くに住む人ぐらいしか訪れることもなかったように思っていたのに。 ジョーは大きくため息をついた。 坂の下で待っているフランソワーズの所へ、ジョーは駆け戻った。 デニムのパンツとスニーカーというラフなスタイルの彼女が、道端の石の上に座っていた。 「ジョー！」 彼の姿を認めて、立ち上がりながら微笑む。 「どうしたの？急に、ちょっと待っててなんて」 「う、うん、なんでもないんだ」 （フランソワーズを驚かせてあげようと思ったのに、あれじゃ、ゆっくりすることもできないよ） ジョーは内心がっかりしながらも、彼女には微笑み返した。 「えーと、道をあんまり覚えていなくて。もう、ずいぶんと変わったみたいだ。どうしようかな」 「そうだったの。じゃあ、二人で探険ね！」 にっこり笑って彼女は彼の手をとると、そのまま走り出した。 ジョーが登った道と反対側のゆるい坂を駆け下りたところで、二人は走る速度を落とした。 あるかないかの道筋をたどり、小川をこえて、草をかき分け、大きな木々の間をすり抜けたところで、顔を見合わせてどちらからともなく小さく笑う。 そこは、緑の鮮やかな野原だった。 明るい黄色の菜の花、地に広がる葉の中にちょこんと頭を出しているシロツメクサの白い花、たんぽぽの可愛らしい花、ちいさな蓮華までがあちらこちらに咲いている。 名前もしらない小さな青い花たちも、辺り一面に広がっていた。 ふわりと緑の香りを含んだ風が吹き抜けていく。 「大発見ね！こんなきれいな所に出逢えるなんて！」 フランソワーズはジョーを見て、うれしそうに笑った。 そして、ジョーもその笑顔につられて微笑んでいた。 いつも控えめな彼女が、無邪気にはしゃいでいる。 あの木を彼女に見せることができなかったのは残念だったけれど、今のこの笑顔を見られたなら、それだけで満足だと思った。 自分にとって、彼女の笑顔が一番のご褒美なのだから。 「とっても気持ちいいところ！こんなにいっぱいの花！」 その野原の真ん中辺りに立って、彼女はぐるりと見渡して深呼吸した。 「ホントだね。なんだか空気もおいしいや」 彼の言葉に、フランソワーズは上目づかいに笑みを浮かべた。 「ねえ、ジョー、おなかすいていない？」 肩にかけたバックから、小さなつつみを取り出す。 「こんな素敵な場所でのランチは、いつもよりおいしいと思わない？」 「フランソワーズ？」 「でも、味の保証はできないけど」 「いつだって君が作ってくれるものは、おいしいよ」 「だって！」 彼女は柔らかな草の上に座ると、手にしたつつみを開く。 中にはきれいな三角に握られた、おにぎりが詰められていた。 「初めて作った、日本のお弁当なんですもの」 ジョーは、目をまるくして、彼女とつつみを見比べる。 「すごいや！フランソワーズ」 そして、すぐさま手を伸ばした。 「楽しかった。ありがとう、ジョー！連れてきてくれて」 「僕の方こそ、お弁当、ありがとう。初めて作っただなんて思えないくらいだったよ。…その、おいしかった」 フランソワーズは少し恥ずかしそうに、でもとても嬉しそうに微笑む。 その彼女の顔も見えなくなった頃、二人は来た道を歩きだした。 「また…いつか来たいわ。こんなにたくさんの花も……みんなにおみやげね」 ジョーは少しだけ迷っていた。 このみちをまっすぐ行けば、すぐに車をとめてある場所まで戻ることができる。 左の道は………。 春とはいえ、まだ日暮れは早い。 街から離れたこの場所、ましてや明日はウィークデイだ。もう人も、それほどいないだろう。 そこまで考えて、ちらりと隣の彼女を見た。 摘んだ花を抱えて、どうしたの？というように彼を見返す。 「……フランソワーズ。もう少しだけ、僕につきあってくれる？」 「ええ」 不思議そうに彼を見返しながらも、その瞳は輝いていた。 それを確かめて、ジョーはフランソワーズの少し前を歩きだした。 「見て、フランソワーズ！」 二人が急な坂道を登り切ったところで、ジョーが彼女の肩を両手で前に押し出した。 鳥居の脇にある灯籠に、ぼんやりとあかりが灯っていた。 真正面には、広げた枝を覆い隠すほどに咲いた花が、月の明かりに輝いて見える。 ざわざわと風が大木の枝を揺らした。それとともに、彼女の長い亜麻色の髪も流していく。 枝から離れた、淡く色づいた花びらが二人をとりまいた。 「……素敵！」 一言声をあげて、彼の隣から駆け出した。 木を見上げ、手を伸ばして、風に乗った花びらを追いかけている。 しなやかに腕を振って、地にとどまらず軽やかにふわりと動く彼女は、まるで踊っているようだった。 舞台で踊っているときよりも、ずっとずっと彼女を感じることができる踊り。 「見て！ジョー！」 手のひらに花びらをのせながら、彼を振り返った。 少し離れたところで、ジョーはその彼女を見つめていた。 花びらを髪にも肩にもまとわせて、こちらに向かって微笑む彼女を素直に綺麗だと思った。 「どうしたの？ジョー」 笑顔のままの彼女が、立ち止まった彼を見つめ返した。 「ジョー？」 大きな桜の木の下の彼女は、花びらをまとってふんわり輝いていた。 幻のようだと思う。 彼女は本当にそこにいるのか。 月明かりの桜の中で微笑んでいるのは、本当に彼女なのか。 ふと、そんな思いにとらわれた。 「どうしちゃったの？へんなジョー。こっちに来て見て！すごいの」 腕を差しのべて、彼を誘う。 彼はほっと、小さく息をついた。 そして、その差し出された両腕に導かれるように、彼は彼女の元に近づくと軽く肩を抱いた。 「…よかった」 一言つぶやくと、彼女を残して花びらの敷き詰められた木の根本に、ころんと寝転がった。 柔らかな草が肌に触れてくすぐったい。 「ジョー？」 彼女が上から、そのジョーをのぞき込んだ。 「僕はずっと昔、こうやって空を眺めるのが好きだったんだ」 「え？」 彼の目につられて、彼女も顔を上げる。 また、強い風が枝を揺らす。 天から花びらが、降るように舞い降りてきた。 視界一杯の花。 風に揺れる花と花びらたちのその間に、淡くかすんだ大きな月が透けて見えていた。 その光さえも、花の色に染まって見える。 「あ……」 「ね」 ジョーがフランソワーズを見上げて、子供のように笑った。 「ジョーったら、本当に素敵な場所を知ってるのね」 青い瞳が花から離れて、今度はまっすぐに彼を見つめている。 「この場所で、こうして花を見ることを知ってるのは君だけ。今まで僕だけの秘密だったんだ」 「ホント？」 「もちろんだよ。…君にも見せたかったんだ」 彼女はもう一度嬉しそうに笑うと、彼の隣に同じように寝ころんだ。 ふわりと髪が草の上に広がった。彼の所に、ほのかに甘い香りが届いた。 「わあ、ホントね。この方がもっと素敵だわ。見て、ジョー。月があんなに綺麗。あなたが子供の時もこんな風に月を見ていたの？」 並んで寝ころんだ二人に、螺旋を描くようにして花びらが降り続けている。 「…そうだな。時々ね。……とても嫌なことがあったとき、あてもなく歩いていて、偶然ここをみつけたんだ。神社はあるけど、人はいなくて……。こんなに花が咲いているのに、誰一人いなくて。僕はここでずっと空と花を見ていた。今みたいに夜じゃなくて、よく晴れた午後だったけどね」 「一人で見ていたの？」 「うん。……あのころの僕は……」 彼は言葉を切った。 ちらりと視線を左側に走らせると、彼女もまた、彼を見ていた。 「僕はこの髪も、顔も……いや、何もかもが嫌だったんだ。どうして自分がここにいるのか、分からなかった」 ジョーはもう一度空に浮かんでみえる花を見つめた。 「……何も信じていなかったし、誰も信じられなかった」 「…ジョー……」 「僕は厄介者だったんだ。今思えば当たり前だよ。誰の言葉にも耳を貸さず、自分一人だけで生きていけると思っていたんだから」 自嘲気味に笑う。 「……僕のまわりは全部が敵だった。いや、僕が敵だと思いこんでいただけだね。そのくせ、誰もわかってくれないなんて思っていた。本当に子供だったんだ」 「ジョー、あなたは……」 「いいんだ。……そんな僕だから、誰も僕の近くにはやってこなかった」 細く息を吐き出すように話す彼の指先に、そっと暖かいものが触れた。 彼には、それが彼女のしなやかな指であることに気付くことに、少し時間がかかった。 彼の指をやさしく握る暖かい手。 それを感じて、どきりと胸が高鳴った。 「不思議ね。そんな風に言うあなたのところが、私には、どこよりも一番安心できる場所なの」 「……」 「他の誰があなたのことを恐れていても、私には、私が一番優しくなれる所なの」 「フランソワーズ」 「だからジョー。ずっと私の側にいてね」 最後の方は消え入りそうなほど小さな声で、それでも彼の耳にはしっかりと届いていた。 彼は、はにかんだように笑う。 寝ころんだまま二人ともお互いの方へ顔を向け、吐息がふれそうなほど近くで、それぞれの瞳の奥を見つめていた。 「それを言うのは僕の方だよ。僕は……サイボーグになんてなった時には、自分の運命を呪ったよ。まだ僕を苦しめるのかって。生まれも、両親のことも、他の奴らとは何もかもが違って苦しんできた僕を、とうとう人間ですらなくしてしまうのかって」 二人の間を少しの沈黙が訪れた。ふとあの時に意識が飛んでしまう。 彼の指を握った彼女の手に、少しの力が込められた。 気付くと、彼女の青い瞳が潤んでいた。 眉根を寄せてじっと彼を見ているが、今にもこぼれ落ちそうなほどの涙が、長い睫を濡らしていた。 「……でも、それは違ったんだ。僕は……サイボーグになったからこそ、きちんと人間になれた気がする。君に出会って、仲間に出会って、みんなが僕を変えてくれたんだ。信じることも、誰かをとても大切に想うことも、全部ね」 さわさわと風が花を降らせる。 頬を花と同じ色に染めた彼女の、髪にも、胸にも花びらがつもりはじめていた。 草の上に広がったその髪の先が、風に揺れて彼の頬をくすぐる。 「もしも、サイボーグにならなかったら。仲間に出会わなかったら。君に出会わなかったら……。僕は人間として生きていけたのか、わからない。この年まで生きていたかどうかだってあやしいものさ。それくらい、僕は……」 「ジョー…そんな……」 「本当だよ、フランソワーズ」 彼女の言葉を遮ると、彼女は言葉を飲み込んで、彼を見つめている。 「君がいたから、僕は今ここにいるんだ」 今度は彼が力強く彼女の手を握りなおした。 「君だけは、それを知っていて」 彼女が小さく頷いた。 頬に一粒、涙がつたう。 二人はそのまま、じっと空を見つめていた。 ただ、黙って桜の木の下から花を見上げていた。 何も言葉をかわさなくても、つないだ手のひらからあたたかさが伝わってくるようだ。 時折吹く風が枝と草を凪ぐ音以外、他には何も聞こえない。 どれくらいそうしていただろう。 いつのまにか枝の間からのぞいていた月が、そこから見えなくなっていた。 見回す限り、淡い桜の花の色。 ほのかに薫る桜の香りと、彼女の香りにつつまれて、彼はそっと目を閉じた。 「……ありがとうフランソワーズ。僕をいつも救ってくれて」 彼女からの返事はない。 そのかわりに、小さな規則正しい吐息を感じた。 「…フランソワーズ？」 しっかりと手を握ったままの彼が、そっと彼女に視線をうつす。 ひんやりとした夜の空気と、静かな空。 「眠っちゃったの？」 彼らの反対側には、ぼんやりとした灯篭の明かり。 月明かりに、ほんのり輝く桜の枝が、２人を優しく包み込んだ。 . |