街は、奇妙な静けさに包まれていた。 そこに人の姿はなく、通りを頻繁に行き交っていたはずのエア・カーもモノレールも、今は全く影を顰めている。 がらんとした交差点を曲がった途端、何かがギラリと光った。目を射るような眩しさに、００９はすばやくスーパーガンを構えた。 だが、何も起こらない。慎重に周囲を探る。動くものは何もない。ふと顔を上げると、正面のガラス張りのビルが照りつける太陽の姿を真っ白に映していた。 （光の反射だったのか？） ふうっと息を吐いて、００９は頭上を見上げた。 透明なドーム天井。その向こうに広がる青い空。 （あの空と太陽だけは本物だ） あとは何もかも作り物。この空気も、自分の頬を嘲るように撫でていく微風さえも。全てが、計算どおりに「作られ」「コントロール」された人工物だった。無機質な金属とガラスで造られた街を、身を切るような静寂が包む。張り詰めた空気の中、全身の神経を尖らせながら００９は歩き続けた。 ―――次は、いつ始まる？ 突然、何の前触れもなく始まる攻撃。何者かが彼を狙っていた。相手の姿は全く見えない。水、炎、そして爆発と瓦礫。ありとあらゆるものが上から落下し、横倒しになり、彼を押しつぶそうと狙った。間一髪のタイミングで身を翻し、着地しようとしたその瞬間、大地は鋭く裂け、崩れた。加速装置を作動させ、つま先が触れるか触れないかのタイミングでジャンプする。飛びついた空中の軌道。そこへ無人のモノレールが激突してくる。慌てて地上に飛び降りると、今度は両側から狙い済ましたようなエア・カーの挟み撃ちにあう。金属が衝突し砕ける音だけがあたりに響き渡った。 間断ない攻撃は３０分ほど続いた。ところが始まったのと同様、突然攻撃の手は止まった。相変わらず人の気配は全くない。００９の激しい息遣いだけが響く。他には、動くものも音を立てるものも、生命を感じさせるものは、何も。ただ耳に痛いほどの沈黙。そして、また暫くすると、唐突に攻撃が始まる。何度もその繰り返しだった。いや、単なる繰り返しではなく、１回ごとに攻撃は激しさと厳しさを増している。「相手」は彼の動きを読み、的確に弱点を突いてくるように思えた。 まるで実験台だ、と００９は忌々しげに呟いた。ひとしきり攻撃し、そして反応を見る。収集したデータを分析し、新たな攻撃方法を再構成しているかのようだった。何度も、執拗に。まるで狙いをつけた獲物をいたぶって面白がるかのように。 ―――なぜだ？いったい何が起こっている？ “どうした、ジョー？何があった？” “そっちは？” “別に異常はない” “そうか。ならいいんだ。僕だけなら…” “お前だけって、どういうことだ？何があった？” “おい、ジョー、今どこ……” 突然、仲間との連絡は途絶えた。脳波通信は不快な妨害電波をキャッチするだけ。それでも、仲間には何も起こっていないと確認できたことは幸いだった。攻撃されているのは自分ひとり―――ということは、このトラブルの原因がわかるまで仲間のところには戻れない。 ―――いったい、この街はどうなっているんだ？ ００９は唇を噛み締め、間もなく攻撃を再開してくるはずの、見えない敵を睨みつけた。 ＊ 砂漠の中に設けられた人工の都市、エリュシオン。 ００ナンバーたちがＮ．Ｂ．Ｇ．団の残党を追って偶然たどり着いたこの街で、ギルモア博士は思いもよらぬ人物と再会することになった。 ヤン・カドモス。ギルモア同様かつてＢ．Ｇ．の科学者であったが、のち組織を抜け、大学で研究を続けたという彼は、この都市の実質的な責任者だった。 「この街の噂は聞いておったが、まさか……ここに、君が関わっていたとは……」 よほど意外だったのか、ただ絶句するギルモアに、カドモスは冷やかな微笑で応えた。 「政府主導のプロジェクトともなれば、表に出たがるのはつまらん政治家とその取り巻きの科学者たちだ。しかし、その方が私には都合がいい。余計な雑事に振り回されずにすむ」 確かにあの頃から、カドモス博士はアネクメーネに人工の居住空間を建設するための研究を続けていた。宇宙空間での戦闘まで視野に入れた世界戦略を展開しようとしていたＢ．Ｇ．にとって、それはかなり重要なプロジェクトだった。しかし――― 「ところで」 呆然と立っているギルモアの背後に並んだ００ナンバーに、カドモスはわざとらしく視線を移し、大袈裟に驚いたふりをした。 「これはこれは、懐かしい顔ぶれが揃っていますな。もっとも君たちは私のことはご存知あるまいが。せっかくの機会だから、ギルモア君と自慢の子供たちにじっくりと見学していただこう。人類の理想郷とも言うべき、このエリュシオンを」 メインコンピュータのある中央制御塔へ向かいながら、カドモス博士は街の概要について説明した。 砂漠の中にありながら、ドーム内は一定の温度と湿度に保たれ、森や湖といった自然さえも人工的に再現され、最高の生活環境が整えられていること。この街で消費されるエネルギーは、すべて太陽光や太陽熱などで自給自足されていること。実際にここに人が住むようになって５年になるが、居住希望者があとをたたず、同型の都市をこれからいくつか建設する予定があること、などを博士は淡々と語った。 「しかし、この都市が人類の理想卿と言われるのは、そんなありきたりの理由からではない。その秘密がここにあります」 中央制御塔の地下３階。この都市の心臓部とも言うべきメインコンピュータルームのロックを慎重に解除し、カドモスは００ナンバーたちを中へ招きいれた。 「この街は、世界で最も安全で平和な街なのです。建設以来、殺人や暴力、盗みなどの犯罪行為による事件は、ただの一度も起こっていない。交通事故さえないのですから」 「事件や事故が全くない？５年の間、一度も？」 ありえん、とギルモアは首を横に振った。 「そう、あり得ない。此処以外ではね。」 「なぜ……そんなことが……？」 「この街は、“ゼウス”と呼ばれる神のごときコンピュータに統治されている。今、あなた方の目の前に存在するのがその本体なのです」 「コンピュータが統治する、だと？機械が、人間を？」 真っ先に反応した００４に冷たい一瞥を与え、皮肉な微笑を浮かべて彼は言葉を続けた。 「そう。統治です。言っておきますが、ゼウスは単なる機械ではありません。人の命令を待っているのではなく、自分自身で考え判断できる。しかも―――嬉しいとか悲しいといった、そんな下等な感情反応をするだけの初期モデルとは根本的に違う。その程度の心理回路なら、いまや子供の玩具にさえ搭載されている。もっと優れた―――そう、感情ではなく、“完璧な理性”をゼウスは持っている。その理性がこの都市に、“完全な平和”をもたらしているのです」 「フン、理性とはご大層なこった」 ００４は鼻白んだが、カドモスはそれを無視した。 「人間の闘争本能をなくすことはできない。多少なりともコントロールできる唯一のものが理性。けれど所詮、各々の人間が持つ理性など、風に吹き飛んでしまうほどのお粗末なもの。人間の理性は情念の奴隷でしかない。肝心なところで、感情は理性を駆逐してしまう」 だがゼウスは違う。そもそも初めから、人間のようなくだらぬ闘争本能など持っていない。ただ全てを素直にデータ化し、冷静に判断し、的確な指示を下す。そこに誤りは存在しえない。だから――― この街は、神(ゼウス)の君臨する地上の楽園(エリュシオン) 「もう少しわかりやすく具体的に説明しましょうか？」 言葉を失っている００ナンバーたちを愉快そうに眺め、博士は言った。 「ここでは、人が生まれてから死ぬまでのすべてをゼウスが管理しています。たとえば―――非常に卑近な例で申し訳ないが―――恋愛も結婚も、すべてゼウスの承認と管理の下にある」 「な、なんなんだ、それ？」 「まさか！？相手を強制的にコンピュータが決めるのか？」 「おいおい！今をいつの時代だと思ってる？神権政治のつもりかよ！」 色めき立つ００ナンバーたち。しかし、カドモスは薄い唇を歪めて笑った。 「そう、まさにその通り。ここは神が統治しているのだから、神権政治とは言いえて妙ですな。しかしそんなに驚くようなことでしょうか？それぞれの人間の性格をデータ化し、相性のよいものを選んで結びつける。稚拙なレベルだとはいえ、そんな結婚はどこの世界でもやっている。しかもわざわざ高い金を出してまで。ここではそれが住民サービスの１つとして組み込まれているだけのことです」 「しかし……一般社会のそれは、強制ではない。その結果に１００％しばられるわけではないじゃろう」 ギルモアは呻いた。 「同じことだ。そもそも、人を愛するとか誰かを求めるなどといった感情は、本能的な欲望の、いわば、刺激に対する単純な身体の反応。そんなものは簡単に数値化できる」 「じゃ……ゼウスの決めた相手を嫌だと言ったらどうなるんだ？」 ００７の問いにカドモスはゆっくりと首を振った。 「そんなことは、ありえない」 「ありえないったって、あるだろう。こんな相手じゃいやだ、とか、こんなはずじゃなかったってさ」 「適切な環境とタイミングさえ整えてやれば、人は簡単に感情も欲望も“良い”方向に誘導される。所詮、人は自分の欲求と欲望が満たされれば、それで満足するのです。だから、ゼウスが選んだ相手を自ら進んで求めるようになるまでに、時間はそうかからない。しかも、人々はそうなったのは自分の意思だと思っている。そのプロセスは、ごくごく“自然”になるようプログラミングされていますから」 「馬鹿馬鹿しい……」 吐き捨てるように００４は言った。 「そう、人間というのは馬鹿で浅ましいものでね。手に入れにくいもの、自分にないものを持つ相手を欲しがる。たとえば―――心の汚れきったものほど、美しく純粋な人間を求めるように。けれど―――それこそが不幸の始まり。そんな情動的な結びつきをあらかじめ防いでおくことは、生まれてくる子どもたちにとって―――つまり人類の未来にとってプラスに……」 「でも―――」と、突然、澄んだ声が博士の言葉を遮った。 「人の感情は、そんな……数値なんかでは測れないと思うわ」 （フランソワーズ……） この不愉快さをどう表現すればいいのか。唇を噛み、俯いてカドモスの言葉を聞いていた００９は、はっと顔を上げて００３を振り返った。 「たとえ人間の闘争本能をなくすことができないとしても、いえ、出来ないのならなおのこと、人間自身の理性でコントロールしなくてはいけないと思うの。でも―――そもそもコンピュータの判断の基準はどこにあるんですか？本能も感情も持っていないコンピュータに、誰かが最初にデータをインプットするのでしょう？そのデータは誰の意志で作られるの？データを作るのが人間だったら、たとえ神のようなコンピュータだって当然過ちを犯すことがあるはずよ。何より―――人間の本能をコンピュータがコントロールするなんて、人が人であることをやめてしまうのと同じ。そんなこと……許されないと思うわ」 柔らかな声はいつもと変わらない。けれど白い頬は紅潮し、青い瞳は憤りに燃えていた。誰かに向かってこんな厳しい表情をする彼女を、００９が見たことは、今までにない。 しかしカドモス博士は、彼女の言葉になぜか蕩けるような笑みを浮かべ、満足そうに頷いた。 「お嬢さんのおっしゃりたいことはよく分かりますよ。確かに―――あなたのような人間ばかりならそれでいいかもしれない。だが、世の中には闘いを望み、そのことに喜びを見出す人間が存在するのです。争うことでしか、闘うことでしか自分の存在を確認できないような危険な人間がね。６０億の中に、たった一人そんな人間がいれば、平和は容易く崩れる。それほど脆いものなのです」 「でも……だからって……」 「ゼウスは、その種の危険な人間をすばやく感知することができる。そして、矯正するのです」 「矯正、ですって？」 「そう。満ち足りた環境の中では、人は争うことなく穏やかに生きることができる。何の不満も不平も感じない場所ならば、争うことはない。ゼウスは、そんな環境を作り出すために、簡単に過ちを犯す愚かな人間に代わって、適切な采配を振るうだけだ。君たちは、私がさっき使った『統治』とか『君臨』という言葉に、必要以上に拒絶反応を示しているが、それは言葉のあやにすぎない。この都市内のすべての人にとって最良の環境を作り出し維持するために、あらゆる状況を把握する。そしてそれを妨げるものを排除し、改善する。人間との一番の違いは、あらかじめ予想される危険さえも回避することができる点です。ゼウスにとっては、ドーム内の汚れた空気をフィルターにかけて不純物を取り除くのも、データ的に見て初めから不幸になるとわかっている結婚を阻止するのも、平和を乱す粗暴な人間をピックアップして矯正するのも、どれも同じことなのです。この都市の平和を守る、という目的において」 「でも……」 と、大きな瞳を潤ませた００３がさらに反論しようとした時、カドモスの腕の端末がピピッと鋭く鳴った。小さな液晶に目をやった彼は、部下を呼び、それと同じような端末を８個持ってこさせた。 「申し訳ないが、会議が始まる。私の代わりに、部下とその端末がみなさんを街にご案内します。これを使えば、原則として、この都市内のどこへでも自由にエア・カーやモノレールを使って行き来することができます。」 「原則として、とは？」 ００２が、怒りを懸命に押し殺したような低い声音で尋ねた。 「この都市は各ゾーンの目的に応じて、セキュリティの設定レベルが異なるのです。ゾーンを移動するたびに、ゼウスがチェックします。そのゾーンはふさわしくない、危険であると判断されたものはその先に進むことはできません。ただ今回、君たちを登録する時に、街全体のセキュリティレベルを通常よりかなり下げたので、問題はないはずです。では、ゆっくりとご覧になってください。また後ほど」 慇懃に頭を下げると、カドモスはコントロールルームから姿を消した。 ＊ 中央制御塔の最上階。彼らのために用意されたゲストルームの窓辺で、００２と００４は肩を並べ、眼下に広がる銀色の街並みを眺めていた。 ここで、本当に人々は幸福に生活しているのだろうか？ 胸の中に渦巻いている不愉快な思い。けれど、それを言葉に出してしまうともっと不快になってしまいそうで、２人はただ黙っていた。 「どうも……すっきりしない」 かなり時間がたってから、ようやく００２が呟くように言った。 「ああ、同感だな」 ２人は同時にため息をついた。 「狂ってるな、あの博士。まるでおかしな宗教に取り付かれてるみたいだ」 「客観的にデータを分析するだとか言いながら、『冷静に』とか『素直に』とか、まるで主観の塊だ。あの男の言ってることは矛盾だらけだ」 心理回路を持ちながら、それを“完璧な理性”でコントロールするなんてことは出来るはずがない、と００４は舌打ちをした。そもそも神話の中のゼウスほど、迸るような己の情熱に正直に身を任せた神はいないではないか。 「どうしたんですか、博士？」 背後のソファでじっと考え込んでいるギルモアに気づき、００４は声をかけた。この街へ来てからというもの、博士はどこかいつもと様子が違っている。 「ギルモア博士？」 ２度も呼んだのに気づかない。これは“重症”だ。窓際から離れると、００４は博士の向かいのソファに腰をおろし、もう一度声をかけた。 「え？い、いや……何でもない。ちょっと考え事をしておっただけじゃ」 ギルモア博士は、少しうろたえた様子で００４を見つめた。 「博士、あのカドモスって男は、本当に改心したんですか？まさか、まだ……」 窓辺に立ったままこちらを振り返った００２の問いに、ギルモアはゆっくりと首を振った。 「改心、か。そんな言葉、端から彼には当てはまらんじゃろう」 「どういうことだ？」 ００２はソファに歩み寄ると、００４の横に腰を下ろして博士を見つめた。 「昔から、変わり者として知られておったでな。Ｂ．Ｇ．の上層部からは評価されていたが、組織に馴染む気など全くない一匹狼じゃったから……」 他の研究者のように甘い言葉で騙されて連れて来られたのではなく、Ｂ．Ｇ．の莫大な研究資金だけを目当てに、自ら志願してきたらしい、ともっぱらの評判だった。 「その資金が十分保障されなくなった途端、自分からＢ．Ｇ．に見切りをつけるような男じゃ。しかし―――理性だの何だの、わけのわからん自分の哲学や美学を振りかざすところは、昔と少しも変わっとらん」 大きくため息をついたギルモアに、００４はずっと抱いていた疑問をぶつけた。 「博士、ここであの男に会ってずいぶんびっくりされてましたが、何か理由が？」 「そう、それなんじゃ」と、深く頷いたギルモアの口から次に出てきた言葉に、００２と００４は思わず顔を見合わせた。 「……死んでる？」 「５年前に？本当ですか？」 「いや、わしも風の噂で、死んだらしいと聞いただけじゃからな。真偽のほどは確かめんまま、今日まで来たのじゃが……まさかこんなところにおるとは」 ただ、とギルモアはまた首をかしげながら言葉を続けた。 「あの男のことじゃ。何かの事情で身を隠そうとして、自分からそんな噂を流したのかもしれん」 「何にせよ胡散臭いことは事実だ。ま、用心に越したことはない」 「タイミングが悪いのう。この子が起きていてくれれば……」 博士はゆっくりと立ち上がって、籠の中で眠りこんでいる００１の顔を覗き込み、小さな肩を毛布でしっかり包んだ。 「もう少しこの街の事情もつかめるんじゃろうが」 「でもスーパーベイビーがずっと起きていたら、俺たちのすることは何もなくなっちまう」 ところで、と００２は００４に言った。 「みんなにも早く知らせたほうがいいんじゃないのか？のんびり見学と洒落こんでる場合じゃない」 「ジョーの奴も、そのつもりで様子を見に行ってる。もちろんあの端末は持たずに、“自由行動”でな。そのうち連絡が入るだろう」 「フランソワーズも一緒に？」 「いや、彼女は子どもたちのための施設を見せてもらうとか言ってたが」 「ひとりで？大丈夫なのか？」 「その施設のあるＣゾーンってのは、この街で最もセキュリティレベルが高く設定してあるらしい。子どもたちの安全を守るためだと、さっき、あの男の部下が言ってたが」 ふうん、と００２は呆れ果てたように肩をそびやかした。 「セキュリティレベル、か。あの言い方にもカチンと来たぜ。まるで俺たちを危険物扱いするような物言いだった。『君たちを登録する時に、セキュリティのレベルを最低に落としました』だと？馬鹿にしてやがる」 「だが、その通りだろうよ。事故や事件を未然に防ごうとするゼウスにとっちゃ、俺たちは当然危険極まりない存在だ。平和で安全なこの街で、スーパーガンみたいなものを持って、さらに体内にも物騒なものを抱えて武装している連中にうろうろされて黙っているわけがない。しかし、ゼウスに危険認定されたら、俺たちも矯正されるってわけか……。何か、臭うな」 もし―――最初からあのＮ．Ｂ．Ｇ．たちの目的が、自分たちをここへおびき寄せることだったとしたら。いや、それは話が出来すぎだ、と００４は、自分の胸にふっと浮かんだ考えを自分で打ち消した。 「矯正とは、信じられない話だな。犯罪をおかしそうな人間は、常に監視されているってことだろう？ここの住民は、自分たちがそこまでコンピュータに管理されていることに気づいているんだろうか？」 ００２は痛ましげに言った。 「ないだろうな。ここはとんだ理想郷だ。エリュシオンなんてご大層な名前をつけやがって」 ００４は腕組みをしたままソファに深く身を沈め、大きなため息をついた。 「しかし―――フランソワーズをあそこまで本気で怒らせるなんて、あの男、なかなかツワモノだな」 「確かに、あのコがあそこまでムキになって言うのは珍しいことじゃな」 ２人の言葉に００２も頷き、小さく笑った。 「いかにも彼女らしいことを言ってたな。もっとあのオヤジをやり込めて欲しかったぜ。でも―――ムキになっていたといえば……」 ここへ来る途中、ドルフィン号の中でフランソワーズとのことを冷やかされたジョーが、いつになくムキになって突っかかっていたことを、ふと００２は思い出した。 「何が今さら、『僕たちは別に……』だ。素直じゃないな」 「グレートが相当しつこかったからのう。ジョーはジョーなりに、みんなに気を使っておるんじゃよ」 そもそも自分の一言がきっかけで、コックピットが気まずい雰囲気になったことを思い出して、ギルモア博士はジョーをかばうように言った。 「俺たちに何も遠慮することなんかないのに。フランソワーズはよくあれで我慢してるな」 不器用な恋人たちを思い、００２がつい微笑みを零した、その時。 「ん？」 ００４がハッと身を起こした。 「何だ、今のは？」 「爆音、か？」 ２人は慌てて窓辺に駆け寄った。 「なんじゃと？何が起こったんじゃ？」 ギルモアも後に続く。 「どうやら、起こるはずのない”事故か事件”のようだな」 「ああ、あそこから煙が上がってる」 ちょっと様子を見てくる、と言い残して、００２は外に飛び出していった。 ＊ 『言い過ぎたわ。会ったばかりの人なのに、とても失礼なことしてしまった……』 コンピュータルームからゲストルームへ向かう通路を、僕たちは並んで歩いていた。俯き加減の彼女の頬には、まだうっすらと赤味が残っている。先を歩いているはずの仲間たちの姿はもう見えなくなっていた。 『そんなことないよ。僕も、あの博士の言葉を聞いているうちに、どんどん腹立たしくなって、でもどう言えばいいかわからなくて、黙っているしかなかった。でも君がみんなの思ってることを、ちゃんと丁寧に言ってくれて、胸のつかえが下りたようだった』 『ううん、興奮して、酷い言い方しちゃったわ』 彼女は哀しげに小さなため息をついた。 『でも―――どう思う、ジョー？』 『うん？』 僕は立ち止まった彼女の瞳を、まっすぐに見つめ返した。 『人の運命を、コンピュータが勝手に“良い”と決めて、そのとおりに誘導するなんて、信じられないわ。それに、人の気持ちをそんなに簡単に０とか１とかの数値に置き換えられると思う？喜んだり悲しんだり、誰かを好きだと思ったりする、そんな大切な想いが、プログラミングされたとおりになるなんて。人間って……そんなものだと思う？』 『フランソワーズ……』 『確かに闘争本能はなくせない。でも、争いも諍いも、ある意味では人と人が心をぶつけ合うから起こるんでしょう？その解決を力に訴えるという方法が間違っているだけで。摩擦や衝突は、もっとお互いを深く理解するための一歩になることだってあるはずなのに。それを初めから回避しようとして、一番肝心なところを機械まかせにしてしまうなんて。そんなの、本当に“完全な平和”って言えると思う？』 きらきらと輝く青い瞳が放つ、優しく強い光。 『言葉や、しぐさや眼差しで、人はお互いの気持ちを確かめて、そして少しずつ相手への思いを育んでいくものでしょう？データや確率で、結果が先に決まってるなんて、そんなの絶対おかしいわ』 綺麗だと素直に思った。君のその強さが、いや、そんな君が好きだ、とさりげなく言えたらどんなにいいだろう。 でも口をついて出たのは、ありきたりの相槌の言葉。思いを込めて、ただ君を見つめることしか出来なかった。 あの場面に、他の仲間がいたら―――きっとまた後で何か言われたに違いない。お前はお互いにちゃんと確かめられるように、自分の思いを伝えているのか、と。 でも――― 思いを言葉にする。僕にとってそれはそんなに簡単なことじゃない。いや、簡単に言葉にしてしまいたくない。そう思っているから、あの時、ついムキになってしまった。 ドルフィン号のコックピット。眠りの時間に入り始めた００１を、そっと揺すりながら寝かしつけていたフランソワーズ。 『ねえ、ジョー、見て』 かわいい顔してるでしょう？と彼女は言った。 『おねむになったときのイワンが、一番赤ちゃんらしいわ』 僕が覗き込むと、イワンは大きな欠伸をして顔をくしゃくしゃにした。 『ね、幸せそうな顔して寝てるでしょ？』 ほんとだ、と柔らかなイワンの頬を指先でつっついた僕に、彼女は包み込むような笑顔を見せた。 『さ、おしめ換えてあげるわね。イワン、行きましょ』 キャビンへと向かう後ろ姿を、僕はぼんやりと見ていた。 『ふふふ、どこからどう見ても、若夫婦じゃな』 『え？』 珍しいギルモア博士の冷やかしの言葉に、僕は真っ赤になり、仲間たちはここぞとばかり反応した。 『そうそう、事情を知らない人には、イワンはジョーたちの子供にしか見えないアルね』 『おい、早いところ、イワンに弟を作ってやらにゃ』 それは親しさの裏返し。仲間だからこその、遠慮のない冷やかし。 わかっていたけれど、僕はなぜかその時、グレートの言葉にとても苛立ってしまった。 『ちょっと待ってくれ』 思わず叫んだ。 『ん？何だよ、今さら』 『今さらも何も……僕たちは別に……』 『おい、ジョー！別にって、まさか別に何でもないとか言うんじゃないだろうな？』 憮然として黙り込む僕に、グレートは大袈裟に驚いたふりをした。 『まさか……まだ「愛してる」って言ったこともない、とか？』 神よ、迷える子羊をお救い給え、と十字を切り、芝居がかった身振りで天を仰ぐ。 彼に悪気がないのは百も承知だ。僕たちのことを気遣ってくれているということも。でも――― 『何てこった！「愛してる」も言えないようじゃ、そのうちフランソワーズに愛想つかされるぜ』 愛してる。 なんて陳腐な言葉だろう。 君への思いを、そんなありきたりの言葉で置き換えられはしない。 そんな言葉では、僕の思いを伝えきれない気がしていた。 もっと優しくて、もっと強くて、もっと深い…… 『まあまあ、グレートも、もういいじゃないか。自分がいないときにみんなでこんなことを言っていると知ったら、フランソワーズも気を悪くするじゃろう』 ギルモア博士が懸命に僕たちをとりなそうとした。 その時、腕組みをしてコックピットの壁にもたれ、僕たちのやり取りを黙って見ていた００４が言った。 『ジョー、言葉っていうのはな、人間だけの特技だぜ。これほど便利で、そして危険な意思伝達手段はない』 『ハインリヒ……』 みんなは急にしんと静まり返った。 『まあ、言葉を使うかどうかはともかく、思いは、伝えるべき時に伝えていないとあとで悔やむことになるぜ。たとえどんな形でも。ちゃんと自分の中にその思いがあるなら、な』 ００４は唇を歪めて薄く笑った。 伝えるべき思いがあるなら。どんな形でも。 だけど―――僕にその言葉を口にする資格があるのか？ ふと何かが近づいてくる気配を感じて、００９は顔をあげた。 また始まろうとしている？咄嗟に身構えた。来るとしたら、今度は背後の運河からの水か？それとも上空から瓦礫が落ちてくるのか？ だが、左手の建物の陰から姿を現したのは、“敵”ではなかった。 「フランソワーズ！どうして……ここが？」 呆然とする００９に、００３はゆっくりと近づいてきた。 「ジョー、ここにいたのね」 「フランソワーズ、ダメだ！危ないよ！」 ００９は思わず後ずさりした。 「やっぱり何かあったのね？あなたとの脳波通信が急に途切れてしまったから、心配になって探してたのよ」 駆け寄ろうとする彼女に、００９は慌てて周囲を見渡した。今のところ、気配は、ない。 でも――― 「待って！こっちへ来ちゃダメだ！君は……攻撃されたりしなかったかい？」 「攻撃？どういうこと？」 彼女は顔を強張らせた。 「さっきから何ものかが、僕を狙ってる」 「そんな……まさか！誰が？」 「君を巻き添えにしたくない。だから、それ以上近づいちゃダメだ！」 ００３はじっと周囲に目を凝らし、耳を澄ませた。 「今は大丈夫よ。周りには何も見えないわ。ねえ、ジョー、それより聞きたいことがあるの。大事なことよ」 「大事なこと？でも……」 ００９は焦った。彼女の目と耳で周囲を探っても気配がないのなら、まだ暫くは攻撃してこないのかもしれない。でも、今までのタイミングから推測する限り、攻撃の再開は時間の問題だった。 「大丈夫。私だって、サイボーグなのよ。だから……」 彼女はそう言うと、微笑を浮かべて、静かに近づいてきた。 「フランソワーズ……」 彼女の差し出した手を、そっと握る。 「ジョー……」 次の瞬間、ふわりと彼女の髪がジョーの頬に触れ、鼻腔を甘い匂いが満たした。 「……フランソワーズ……？」 胸の鼓動が激しくなる。頬がかあっと熱い。彼女が突然、自分の腕の中に飛び込んでくるなんて。どうして……急に、そんな…？ 「ねえ、ジョー。お願い」 耳元で柔らかく囁く声。 「……って」 背中にそっと腕が回され、抱きしめられる。 「……え？」 甘えるように、彼女は頬を００９の胸にそっと押しつけた。 「お願い……」 「フランソワーズ……」 と、その時。 突然、胸に強い衝撃を受けて、００９は後ろにのけぞった。バランスを崩して、運河に落ちそうになったところを、どうにかしのぐ。 いったい、何が起こった？ まさか、彼女が自分を突き飛ばした？ 「フランソワーズ…？」 事態が全く飲み込めない００９に向かって、彼女は鋭い声で叫んだ。 「ダメっ！！！来ないで！！早く、飛び込んで！！！」 彼女は急に通りを駆け出した。 「フランソワーズ？」 唖然としたジョーがそう呟いた時。 ズガアアアアアアアアアアアアアアアアアンン！！！ グワシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン！！ 何かが大音響とともに爆発し、その衝撃で目の前の建物までもが崩れ始めた。 「な…に……が？」 何が目の前で起こったのか。視覚はそれを確かに捉えているのに、頭の中でちゃんとした情報として認識できない。 もうもうと立ち込める土煙。そしてきつい火薬の匂い。 ようやく通りの向こうが見えるようになったとき、００９は気づいた。 たった今、目の前を風に翻るように飛んでいったのは、黄色いマフラーの断片だった、と。そしてついさっき自分を優しく抱きしめた華奢な腕が、その持ち主を失い、通りの真ん中にぽつんと転がっていることに。 これは、現実（ほんとう）のことなのか？ それとも―――？ フランソワーズ・・・・ もしかしたら僕は、君を失ったのか？ まだ何も伝えないまま？ 本当に？ 「フランソワーズ！！！！」 ００９は狂ったように絶叫すると、がっくりとその場に膝から崩れ落ちた。 ＊ 爆発の様子を見に行った００２からの連絡はまだない。痺れを切らした００４も、たった今出て行ってしまった。 ギルモアはたまらなく不安だった。いても立ってもいられず、窓辺を行ったり来たりしながら街を見下ろしていると、突然、カドモスが姿を現した。 「一体どういうことじゃ？！どうなっとるんじゃ？！！今の爆発は何じゃ？！！！」 「ギルモア君、まあ、落ち着きたまえ」 「事故も事件も、ここでは全く起きたことがないのじゃろう？君は、なぜそんなに冷静でいられるんじゃ」 ギルモアは、軽くいなそうとしたカドモスに詰め寄った。 「確かに、これはこの都市始まって以来の事件だ。だがゼウスはちゃんと状況を把握している。現在、トラブルに対処中だ」 「トラブルに対処中？その全能だとか言うコンピュータが故障でもしたというのか？」 まさか、とカドモスは鼻で笑った。 「トラブルに対処、という言い方は正確ではない。すべてはゼウスの計算どおりに進んでいる。心配することはない」 「……計算どおりとは、どういうことじゃ？」 ギルモアは青ざめ、うろたえた。まさか、彼は―――？ 「危険極まりない殺戮兵器が、この平和な街を脅かそうとしている。もはや矯正も不可能と判断された。だから…」 「だから、どうするというんじゃ？君は何を企んどる！」 大声を上げたギルモアに、カドモスは肩をすくめた。 「企んでいる？ずいぶんと人聞きの悪い言葉だな。いいか、勘違いしないで欲しい。判断したのは私ではなく、“神が”審判を下されたのだ。そう。君の作ったサイボーグは危険分子だとな」 「危険分子？なぜじゃ？何のために……」 ギルモアは言い知れぬ怒りに身体を激しく震わせた。 「今さら、じたばたしても、どうすることも出来ない。君もここからゆっくりと高みの見物をしたまえ。以前から、君にはゆっくりと礼をしなければと思っていたから、いい機会だ」 くくく、とカドモスが笑いを噛み殺した。 「礼をする？……君は、初めから……」 眩暈がした。咄嗟に窓ガラスに手をつき、ギルモアはふらついた身体をどうにか支えた。 「私の空間改造計画は、君たちのサイボーグ計画のあおりで、縮小に次ぐ縮小。最終的には中止にまで追い込まれた。優れたコンピュータによって完璧な環境を整備するというプロジェクトより、どこでもどんな場所でも活動できる、くだらない使い捨ての機械人間を作ることを優先するとは、私もずいぶんと軽く見られたものだ」 「じゃあ、君は……」 あの頃、彼が自分に対して、強いライバル意識を抱いていたことには気づいていた。彼がＢ．Ｇ．から脱出したのは、ちょうどサイボーグ兵士の量産体制が整った頃だったから、逃亡した理由の１つは、組織を挙げてのサイボーグ計画推進に対する不満であったろうと推測していた。しかし――― 「この街のセキュリティシステムのプログラムは、まもなく更新される予定だ。現在、その準備中でね、最終チェックに君の力作を試させてもらおうと思ったのだ」 「最終チェックに試す？……ということは……Ｎ．Ｂ．Ｇ．の侵入騒動も、君の仕組んだ茶番だったというのか？」 「それは濡れ衣だ。ともかく、当初とは少々予定が変わった。君の力作にはがっかりさせられたよ。あの頃から殆どバージョンアップされていないのはどういうことだ？古めかしいプロトタイプのサイボーグばかり。研究熱心なギルモア君にしては、ずいぶん怠慢ではないか」 「それは君には関係ないじゃろう！とにかく、彼らに何をするつもりだ？今、彼らは……」 「せいぜいスクラップにするしか使い道がないような旧モデルなど、ここでは何の役に立たない。残念ながら使えるのは２体だけだ。他は鉄屑にするまで、電磁牢でおとなしくしてもらっている」 「電磁牢だと？いい加減にしたまえ！彼らが、君に何をしたというんじゃ？狂っとる！君は……狂っとるぞ！」 「さて、その二体だが―――」 ギルモアの悲痛な叫びなどどこ吹く風といった様子で、カドモスはさらりと言葉を続けた。 「これはなかなか対照的なサンプルだ。一体は、人間の闘争本能をそのまま、いや極限まで増幅したような、凶暴極まりない危険物。これは今回のシステムチェックにはまたとないサンプルだ。これを見たまえ」 カドモスが腕の端末を操作すると、窓の反対側の白い壁面に、廃墟のような瓦礫の山が映った。そしてその中にじっと佇む赤い影。 「こ、これは……？」 「どうせなら、最初から見せてやろう」 水、炎。そして爆発で崩壊する建物。画面は、その赤い影が都市内のあちこちで集中攻撃を受けるさまを映し出していた。 「ゼ、ゼロゼロ…ナイン」 「どんなにセキュリティレベルを下げても、この男は全てのゾーンの警戒レベルを超えてしまう。だから興味を持った。予想通り、大した暴れっぷりだ。攻撃すればするほど、反撃は凄まじくなる。追い詰められるほどに動きは俊敏になり、的確に障害を破壊してくる。まさに凶悪な危険物だ。神はなかなかの手ごたえに満足して楽しんでおられる」 床にへたり込んでいたギルモアは、怒りで顔を真っ赤にして叫んだ。 「楽しんでおられるだと？君は何を考えておるんじゃ！人間をコンピュータの玩具にするんじゃない！！！」 「人間、か。こうして見ていると、とてもそうとは思えないが……。確かに、精神を攻撃されると非常に脆いところは人間的ではある」 場面が突然変わった。大きな通りを、別の赤い影がこちらに向かって駆け出してくる。 「フランソワーズ……」 ギルモアが呻いた時、スピーカーから轟音が響き、画面はハレーションを起こしたように真っ白になった。 『フランソワーズ！！！！』 ００９の絶叫。そしてがっくりと地面に崩れ落ちる姿が映る。 「まさか……そんな……」 茫然自失のギルモアを目にして、ただ冷ややかに微笑むカドモス。 「この衝撃の反動で、次はどんな暴走行動に出るかと楽しみにしていたのだが」 地面に両手を突き背中を震わせている００９に、カドモスは舌打ちをした。 「さっきからずっとあのままだ。よほどのショックを受けたらしいが、これでは意味がない。そろそろ次の行動に移ってもらわねば」 「フランソワーズ……まさか……」 絞り出すような震える声で呟いたギルモアに、カドモスは鷹揚に言った。 「心配いらない。彼女は―――」 画面がさっと切り替わる。 ここはどこなのだろう。白く明るい部屋の真ん中に、光沢をもつパールのようなカプセルが置いてあった。その中に横たわるのは――― 「いわば、神の怒りを鎮めるための生贄だ。神がそれを望んでおられる。あんな凶暴な殺人兵器を抹殺するために使ったりはしない」 「じゃあ……さっきのは……」 ぐったりと肩を落とし、ギルモアは床に両手をついたまま、何度も頭を振った。 この男は狂っている。その狂った男が、神だとか何だとかを持ち出して、スーパーコンピュータを思うままに操っているのだ。この街の暴走はもう誰にも止められない。いったい、どうすれば――― 「さて、次のステージへ進むとするか。ギルモア君、そんなところに這いつくばっていないで、ここへ座りたまえ。ゆっくりと見物しよう」 カドモスはゆったりとソファに体を沈めた。 ＊ 身動きすることも出来ず、００９はその場に蹲っていた。 恐ろしくて目を開けられない。目の前の現実を受け入れたくない。頬を流れ落ちる涙。それは決して枯れることはないのだと彼は今、初めて知った。あれからどれだけ時間がたったのかわからなかった。 と、その時。 “ジョー！” ―――脳波通信？ “大丈夫か、ジョー？” “００…４？” ００９はのろのろと頭を上げた。空は眩しさが痛いほど青く晴れていた。 “今、俺たちはバラバラに電磁牢に放り込まれている。博士とイワンは、あの野郎といっしょだ” “……フランソワーズが……” “しっかりしろ、ジョー！聞こえてるか？” “００４、フランソワーズが……” 彼女がどうなったのか、とても自分の口では言えない。言葉にすることが恐ろしい。本当に起こったことだと認めてしまうことになるから。 “おい！ちゃんと目を開けて見ろ！……まあ、無理もないが。いいか、よく聞けよ。あの悪趣味野郎、さっきの爆発の場面を俺たちにもわざわざ見せやがった。お前が攻撃され始めてからの様子も全部な。だから落ち着け。目の前に転がっているのは、フランソワーズのクローンロボットだ” “クローン……ロボット？” 呆けたように００９は繰り返した。 “ああ。そっくりに作られているが、ロボットだ。ヤツは、俺たちを登録した時に一通りの情報を手に入れている。神さまにはそれくらい朝飯前なのさ” “本当に……？じゃあ、フランソワーズは……” ―――死んではいない？ “本物の彼女は捕らえられている” ふらふらと立ち上がると、００９は転がっている腕に向かって、震える一歩を踏み出した。 “でも…それなら、なぜ…？” なぜロボットが僕をかばった？ロボットなら、プログラミングされたとおりに行動するはずなのに。なぜ僕をかばって、ロボットは自爆したのか？本物のフランソワーズならきっとそうするだろうとおりに。 ００９は地面に跪くと、人造皮膚に覆われた金属とプラスチック製の腕をそっと両手で拾い上げた。 “とにかく、お前と００３が、この街のとんでもない神のターゲットになってるのは事実だ” “彼女は……今、どこに？無事なのか？” “ああ、その映像もわざわざ映しやがった。カプセルの中に眠らされている。だから連絡は取れない。場所は、おそらくＣゾ……” 突然、ザザザという不快な音が耳に響いた。また妨害電波だ。 “ジョー……？いいか、とにかくまずはメインコンピュータルームだ。そこをやらなけれ……” それきり、ぷつりと通信は途絶えた。 今のは本当に００４だったのか？ あまりにもタイミングが良すぎる気がした。しかし、それがたとえ罠であったとしても、もう自分にはそこへ行くという選択肢しか残されていない。 ００９は植え込みのラベンダーの茂みにそっと腕を置くと、頬の涙を拭って歩き始めた。 そして―――今、彼は激しく息をつきながら、メインコンピュータルームの扉の前に立っていた。防護服はところどころ破れ、左脚の腿の部分は大きく裂けていた。この都市の全力をあげた攻撃に、さすがの彼もかなりの痛手を負っていた。 だが、とにかくここまでたどり着いた。 どう攻めるべきか。今までは防戦一方だった。だが、今度は―――― ００９が意を決して扉を打ち破ろうとスーパーガンを構えたとき、扉は静かに開いた。 反射的に指がトリガーにかかる。 だが――― 「フランソワーズ！？」 驚愕する００９に、彼女はいつもの笑顔を向けた。 「どうしたの、ジョー？そんな怖い顔して」 右手を下ろそうとして、ジョーはその動きを途中で止めた。 「どうしたの、ジョー？どうして……？」 水平に銃を構える。引き金を引こうとした時、彼女が叫んだ。 「ジョー、まさか……私を……？」 信じられない、という表情で００３は首を横に振った。 「どうして？どうして撃つの？お願い、止めて！！」 今度、攻撃してくるとしたら、おそらく普通の手段では襲ってはきまい。僕の本当の弱点を掴んだら、必ずそこを狙ってくるはずだ。 僕の弱点。それは――― 次の瞬間、スーパーガンは火を噴いた。 ００９は床に倒れたロボットを踏み越えて、前に進んだ。 これが最後の扉。電磁ロックのコントロールパネルを撃ち抜くと、難なくドアは開いた。 中はがらんとしたドーム状の大きな空間だった。その真ん中に“ゼウス”は設置されていた。 「ゼウス、僕はここまで来たぞ。今までお前の実験に付き合ってやった。だが、もうこれで終わりだ。お前のように、人の心を弄ぶ奴は許せない」 ００９がコンピュータ本体に向かって銃の照準を合わせた、その時。 ひとり、またひとり、と同じ姿をしたロボットが彼の前に次々と現れた。 「「フランソワーズ……？！」 右手には彼のものと同じスーパーガンらしきものを構え、みな一様に彼に銃口を向けている。 「ジョー、あなたはまた私を撃つの？」 「あなたは私をまた殺すの？」 「本気なの？」 ００９は歯を食いしばり、引き金を引いた。何度も、何度も。 もしも―――あの中に、本物の彼女がいたら？ 催眠術をかけられ、操られているだけの本物のフランソワーズがいたらどうするのだ？ 頭の中でそんな声が響く。 だが彼は躊躇わずにひたすら撃ち続けた。 そして―――目の前に立ちふさがる姿がなくなった時、００９は肩で大きく息を吐くと、がくりと膝をつき目を閉じた。 ところが、しばらくすると、今度は背後からまた何かが静かに近づいてくる気配がした。００９は硬く目を瞑ったまま、激しく首を横に振った。 「やめろ！もう、やめてくれ！！！」 喉の奥から絞り出すような声で彼は叫んだ。 「ジョー……立って。ちゃんと私を見て！！」 やめてくれ、と００９は叫び続けた。 「もう、その瞳で僕を見るな！！これ以上……もう……」 床にぽたぽたと涙が落ちる。 「お願いだから……もう……」 「立って、ジョー！！早く！早く銃を持って構えて！！」 ロボットは彼の叫びなどに耳を貸さず、一歩一歩近づいてくる。 「やめろ！！」 「さあ、ジョー、構えて撃って！」 「やめるんだああああああああ！」 後ろを振り返りざま、彼は引き金を引いた。閃光はロボットの肩先をかすめ、壁を焼いた。と同時にロボットの持つスーパーガンが火を噴いた。 だが銃口は――――彼には向けられていなかった。彼の背後の本体を狙っていた。 ビビビビビビ！！！！！！！！！！！！ 異様な音が部屋中に響き、照明がチカチカと激しく点滅を繰り返した。 「ま、まさか？」 「あぶないっ！！！」 立ちすくむ００９を、自分の手で撃たれた左肩を押さえたロボットが突き飛ばした。００９のいた場所―――“彼女”が倒れこんだ場所を目がけて、その大きな空間の天頂部に取り付けられたアームから鋭いレーザーが放たれた。 「ああっ！！！」 だが、“彼女は”身を翻してそれを避け、アームが自分の姿を追うのを確認すると、次にレーザーが放たれる瞬間を狙いすましたように、“彼女”はコンピュータ本体に向かって突っ込んでいった。光は忠実にそれを追う。 “加速…装…” ００９が奥歯のスイッチを入れた、その時、まるで光のシャワーのように天井のアームは四方八方めがけて狂ったようにレーザーを放射し始めた。 「うわあああああああ！！」 ジジジジジジジ、と皮膚を逆なでするような金属の悲鳴が響いた。ビニールの溶ける刺激臭いがたちこめる。本体の点滅が止まった。 「フランソワーズ！！！！！！！！」 アームを撃ち落し、００９は本体に駆け寄った。だが、“彼女”の破片は、その表面にへばりつくように溶けていた。 ００９は頭を抱え、その場に崩れるように蹲った。 ＊ 突然、映像がとぎれた。電磁牢のスイッチがオフになる。捕らえられていた００ナンバーたちは、一斉に外へ飛び出し、中央制御塔へ向かった。 ―――同じ頃。その中央制御塔の最上階で、カドモスに異変が起こった。 「うっぐっ；；；」 彼が苦しげに呻いた、次の瞬間。 ズガアアアアアアアアアアアアアアアアアアンン！！！ 閃光とともに凄まじい音が充満する。ギルモアは咄嗟にイワンの籠に覆い被さり、爆風をやりすごした。 そして、静寂が訪れたゲストルームに散乱していたのは――― 「な、なんじゃ？これは・・・どういうことだ？」 ―――金属の塊やプラスチックの破片。色とりどりの配線コード。 ギルモアはふらふらと立ち上がると、その破片の一つを手にとった。 「まさか……彼は……ロボットじゃったのか？」 ガシャン、と音をたてて、まだ白い煙の立ち上る瓦礫の山の一部が崩れた。 ＊ 「結局、何がどうだったんだ？」 「わしにもよくわからん」 研究所のリビングに腰を下ろしたギルモアは、グレートの問いに疲れきった顔を両手で覆った。 「問い合わせたところ、本物のカドモス博士はやはり５年前に亡くなっていた。この５年間、エリュシオンでゼウスに関わっていたのは、彼のクローンロボットだった」 ハインリヒの説明に、みなはさらに首を傾げた。 「何で、またそんな……？」 「さあ……それはわからん」 自分が果たせなかったことを、自分そっくりの機械の身体に託そうとしたのか。自分の頭脳を“永遠”に残して。あのエリュシオンは、ようやく実現することになった彼の生涯の夢だったのだから。 だが、カドモス博士の死はあまりに突然だったという。 「そんなことはありえんと思うが、もしかしたら―――」 自分の作ったロボットに、あまりに進化しすぎた機械に、彼自身がのっとられてしまったのか？ 今となってはもう何もわからない。 「悪のりの過ぎた神さまに、荒っぽいお仕置きをしたことになるが、修復は十分可能だそうだ。それに、この５年間に不自然に修正されたプログラムを元に戻せば、エリュシオンに人は住める」 今度こそ本当の楽園になるかどうかはわからんが、とハインリヒは皮肉な微笑を浮かべた。 「後味の悪さは、今までで一番だな」 重いため息をついたジェットは、ちら、と廊下に続くドアを振り返った。 「まだ、目が醒めないのか？」 「ああ。だが危害を加えられたわけじゃない。眠っているだけじゃ」 「アイツ、まだ着替えもしないで？」 「早くあちこち修理せねばならんのに、頑固じゃからな、ジョーも」 博士はまた大きなため息をついた。 ＊ フランソワーズは静かに眠っていた。 そばでこうして見つめているだけで、安らぎを感じる。 いつも君がこうして眠っている間に、醜い争いは全部終わってしまっているといいのに。 でも君はきっと怒るだろう。 「私だって００３なのよ！」 そう言って本気で怒る君が、僕は好きだ。 煤だらけになった手を伸ばし、ジョーは滑らかな曲線を描く頬にそっと触れようとした。だが、触れるか触れないかの直前で、その手を止めた。 僕の手は汚れてる。 あの博士の言っていたとおり、僕は殺戮兵器だ。 何度も、何度も、君を、君の姿をしたものを撃った。 躊躇わずに何度も君を殺した。 その時の僕は、自分でも驚くほど、冷静だった。 でも、最後のロボットが僕をかばってゼウスを撃ったとき、もう僕は気力のかけらも残っていなかった。だから、カプセルの中に横たわる君を目の前にしたとき、僕は思った。 ―――もし、これも本当の君でなかったら。 君の姿をしたものを抱き上げた途端、また今までのように全てが吹き飛ぶような爆発が起こったら。 でも、もうそれでもいいと思った。 本物の君でなくても、姿だけではなく中身まで君にそっくりな偽者と一緒に死ぬなら、それでもいい、と。 でも―――僕は、これでますます君には何も言えなくなってしまった。君を何度でも殺せるような僕には……。 「・・・ん・・・」 長い睫が小さく動いた。 「フランソワーズ？」 彼女はゆっくりと目を開いた。 「ジョー？どうしたの？ここは……？」 蒼い瞳がまっすぐに彼を見つめる。 「研究所だよ。もう何も心配要らない。大丈夫だ」 ジョーは優しく言った。 「研究所？大丈夫って……あ、あなた！酷い怪我してるじゃない！！どうして、そんな格好のままで……？」 フランソワーズは慌てて起き上がり、自分の上にかがみこんでいたジョーの両腕を優しく掴んだ。 「早く手当てしなくちゃ。でも、どうしてこんな怪我したの？あ……」 いきなり抱きしめられて、フランソワーズは小さな叫びをあげた。 「どうしたの？何があったの？」 亜麻色の髪にジョーは顔を埋め、両腕でさらに強く抱きしめた。 「おかしい！いつものあなたじゃないわ。ねえ、ジョーってば！」 「いいんだ」 低い声でそう言ったジョーの腕の中で。フランソワーズはもがいた。 「よくないわ！ねえ、ちゃんと話して！ジョー！！ん・・・っ」 強引に合わされる唇。 遠慮も躊躇もなく、貪るような口づけ。 顔をそむけようとしたフランソワーズは、ジョーの頬を流れる涙にハッとした。体の力を抜くと、彼女は静かに目を閉じた。 “ねえ、教えて。一体何があったの？” “ちゃんと話すよ。そのうち。でも―――” “ジョー……” “今は、こうしてて。何も聞かないで” “……ジョー……” “でないと、僕は……” 唇を離し、ジョーはフランソワーズの胸に顔を埋めた。 「ジョー……」 フランソワーズはゆっくりと彼の背中に両手をまわした。 僕が闘ってこられたのは、君を守りたいと思ったから 君の涙を見たくないから なのに―――僕は…… 「……大丈夫。もう大丈夫よ、ジョー」 白い手が、ゆっくりと栗色の髪を撫でる。 「あなたのこと、信じてるから。何があっても」 “僕は……君を……” 「大丈夫。だから……もう何も言わなくていいから」 小刻みに震えるジョーの背中を、フランソワーズはあやすように優しく抱きしめ続けた。 |