「何かお飲み物でもお持ちいたしましょうか？」 気がつくとかたわらでキャビンアテンダントが様子を伺うように腰をかがめていた。 アップにまとめたつややかな黒髪が東洋的な美しさをひきたてている。 「眠れないようでしたらアルコールか何か…」 すぐに反応を見せない俺に遠慮がちに言葉をつないでいる。 目元には心配そうな色。俺は今いったいどんな顔をしているんだろうか。 「あ、いや、・・・そうだな。・・・ウィスキーでももらおうか。ロックで」 寝静まる周囲を気遣う彼女の小声に合わせるように自然とトーンが低くなる。 にっこり微笑むと彼女は静かに立ち上がり、すぐに運んできてくれた。 ありがとう、と礼を言い琥珀色の液体を一口だけ口に含んだ。乾いた喉がゆっくりと潤う。 ・・・グラウスか。 適当に見繕ってくれたものだが、ぼーっとした頭をはっきりさせるにはこの芳醇な香りがぴったりかもしれない。 暗い窓に写る自分の顔をチラと見、大きく息を吐き出した。 夢を見ていた。長い夢。だが、目を閉じていた時間はほんの数分だ。 夢の中の俺は唐突に現実へと浮上した。 耳につけていたヘッドフォンが片耳から外れ落ち、クラッシックチャンネルの音楽がフォンから流れていた。 そうか、このせいであんな夢を・・・。 だが、なぜ・・・。 そんな風に、考えてもまとまらない思いにとらわれている時にアテンダントが声をかけてきたのだった。 質素だが手入れの行き届いた調度品が並ぶ梨の木の食器棚。 二人のためのテーブルには、可憐な白い百合が花瓶代わりのガラスのコップに飾られている。 小さな暖炉の火が音もなく燃えている。揺らめく炎が暖かい。 懐かしいあの部屋の匂い。 俺はピアノを弾いていた。かつてそうしていたように。 ここは、暖炉の灯りと窓から射し込む月明かりだけのステージだ。 ステージに観客席は付き物。特等席には君がいる。俺はいつもたった一人の観客のためだけに弾いていた。 君のお気に入りの曲を弾き続けている。 アイボリーと黒の音の階段をすべる俺の両手。その手は――夢の中の俺は――昔の俺だった。今だって、『いつもの手袋』さえすれば傍目にはほとんどわかりはしない。 いや、傍目だけでなく自分自身でも・・・それは作り物の手とは思えないほどの滑らかな動きを見せる。 だが、夢の中の俺は意識のどこかで『戻れた』と思っていた。戻れるわけはないのに。 戻れるわけはない。そうだ。それは何より夢自身が物語っていた。 いつもの光景のはずなのにその席に君はいなかった。 怒っているのか、ヒルダ・・・いや、君が夢にさえ出てきてくれないのはいつものことか。 ハインリヒは自嘲気味に口元を曲げた。 もう、誕生日から１０日も経っているんだ。向こうへ行ったところで期待するようなことなど何もない。みんなで・・博士達と一緒にみんなで祝ってくれるらしいが・・・ただ、それだけのことさ。 ハインリヒはグラスの中身を飲み干すと、再び目を閉じた。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 「ほらほら、早くしないとアル様が来ちゃうわよ！」 にゃーこ博士はキッチンのフランソワーズには聞こえないよう杉本博士に耳打ちした。 「うん、ちょっと待って・・・っと、これでよし！」 リビングの観葉植物の陰でなにやらごそごそいじっていた杉本博士は、そう言って両手についた土を払い落とした。 「ねぇねぇ、ほんとに大丈夫かな？アル様にバレないかしら？」 なんといってもゼロゼロナンバーの戦士の勘はあなどれない。常日頃、ジョーを見ているとつくづく感じる。 「もう〜、本当ににゃーこ博士は心配性なんだから〜。大丈夫だ！って。他のは昨夜までに慎重に設置しておいたし、今のも念の為の予備カメラよ・・・それに何より恋する乙女の一途な想いは世界最強なんだから！戦士の勘になんて負けやしないわ！」 杉本博士の瞳が愛の炎でメラメラと燃えている。 「それにしても・・・今回の作戦って私たちの恋心にとってはものすごい試練だわよね・・・」 切ないため息と共ににゃーこ博士はつぶやいた。 「確かに・・・。初めてこの作戦を編集長から聞いた時には彼女を絞め殺しそうになっちゃたもんね」 しみじみと遠い目をする杉本博士をにゃーこ博士は複雑な思いで見つめた。 「お・・・おまえなんか！今すぐここで・・・！」 目を閉じると今でも耳に響く杉本博士の叫び声。 ぷーちゃの提案にショックを受けて我を忘れた杉本博士は、あっという間に彼女の体に馬乗りになって無我夢中で掴みかかっていた。 「き、貴様！！」 にゃーこ博士の頭の中でも強烈な白い光が弾けた。 拳を振り上げる杉本博士を、あわてて羽交い絞めにするのは自分の役目。 それがわかっていたのに、一緒になって編集長に激しく殴りかかっていたのだ。 久しぶりにお会いできるっ！！できれば、この研究所にいてアル様をお迎えしたい！ そして、直接この耳で、この目であの・・・きっと見せてくれるであろう・・・凛々しいあのお姿を拝みたいのに！ 「それじゃダメなんですよ〜。全っ然！」 二人の激しい攻撃から立ち直ったぷーちゃ編集長は偉そうに腕を組み、二人の博士に口を尖らせて反対した。 「いいですか？あのアル兄様がみんなのいる前で自分からソレをすると思いますか？おそらくしないでしょうね。でも・・・彼はフランちゃんのためだったらソレをしてくれるはずなんです。それに『フランちゃんのため』っていうシチュエーションがソレには大きな効果を発揮させるんですよ〜」 さもわかった風に語っている。だいたい、『アル兄様』って、精神年齢は別として編集長の方がよっぽど年上のはずだ。勝手に慕われてる彼もいい迷惑である。まあ、作戦については編集長の言うことにも一理あるが・・・。 しかし、せっかくアル様と一緒に過ごせる貴重な時間をわずかでも削られるのは、時間だけではなく身も心までも削られる思いなのだ。 ただ、この作戦にほんの小さな光を見出せるのは――アル様と過ごす時間を削る辛さとは比較にならないけれど――代わりにジョーを半日連れ回せるということだけ。 それはそれで魅力的な時間かもしれない。そして、作戦の後にはもっと大きな喜びが待っている・・・はず・・・と信じたい。これで失敗したら編集長をパンチで岩に逆さ磔にめり込ませでもしなければ、やってられない。 ああ！でもフランちゃんとも別行動だなんてやっぱり辛いかも。 すったもんだの挙句、こうして二人の博士と編集長はその作戦を実行することにしたのである。 「あ！ほんと結構いい時間になっちゃってるわね。それじゃ行きますか！」 杉本博士は腕時計を確認するとにゃーこ博士を促した。 「編集長とジョーは？」 「ジョーを監視するためにつきっきりでいるから、一緒に・・・たぶん・・・ガレージにいると思うけど」 杉本博士の問いににゃーこ博士が答える。 「博士達、行くなら早く行って早く帰ってきましょうよ！」 車を玄関に廻したジョーが待ちきれずに戻ってきたようだ。ジョーは自分から話しかけておきながらも博士たちの返事を待たずにキッチンへ進んでいった。 「フランソワーズ！ほんとに一人で大丈夫？やっぱり僕も残って手伝おうか」 忙しそうに料理やデザートの下ごしらえをする彼女にジョーは心配気に声をかけた。 「大丈夫よ。彼が着くのは夕方でしょ。まだまだ時間はあるし先にデザートだけ作っておけば後は簡単だから・・・。それにジョーはダメ。今日は博士たちのお供なんだから・・・お願いね。博士達だけじゃ持ちきれない位お買い物があるって言ってたわ。」 チュールレースをあしらった真っ白のエプロンがふわりとジョーを振り返る。蒼い瞳が微笑んでいる。 今日この姿を見るのは初めてじゃないのに・・・ほんとに彼女はなんてかわいいんだろう。いくら博士たちの頼みとはいえ、こんなに愛しい彼女を一人置いて出掛けなければならないなんて、神様も結構意地悪だ。 「ジョー！！早くぅぅ！」 玄関で博士達が何か言っている。が、できることならこのまま聞こえないふりをしていたい。 「・・・いってらっしゃい、ジョー」 天使の甘いキスでなだめられ、ジョーはしぶしぶ出て行った。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 穏やかな波の音。海からの風がさわやかに吹きぬける。天頂より少し斜めから、やわらかな日差しがふりそそいでいる。 薄く白を刷いたような水色の空はどこまでも高い。 ハインリヒは研究所へ続くゆるやかな坂道を上っていた。日本の9月はまだまだあたたかい。ドイツでは9月の声が急に寒さを連れてくる。線でひいたようにきっちり夏から秋へと進んでいく。日本のように夏に後ろ髪をひかれながら秋を待つようなことはない。 こうして歩いていると暑いくらいだが、かえってそれが乾いた風を一層ここちよく感じさせた。 「『曖昧』ってやつも、いいものかもしれないな」 ハインリヒは一瞬立ち止まり、後ろに広がる海を眺めると、研究所の敷地前に構えた背の高い門をくぐり抜けた。 軽やかなチャイムの音が鳴り終わると再び遠くの波の音に包まれる。 もう一度チャイムを鳴らそうと手をのばすと同時だった。 「アルベルト？！」 アーチ状の飾り窓を施した白く大きな木製の扉が勢いよく開かれると、フランソワーズが飛び出してきた。 天国にドアがあるのは本当だったようだ。目の前には驚いたように見上げた目をぱちくりさせる天使が立っている。 それに、なぜか懐かしい甘い匂い。 「どうして？夕方頃ではなかったの？」 「・・・いや、博士達には昼過ぎには着くと伝えてあったんだが・・・まずかったかな」 肩をすくめるハインリヒにフランソワーズはあわてて首をふる。 「ううん、そんなことないわ！私こそごめんなさい・・・聞いていた時間より早かったから少しびっくりしただけ」 ほんのり頬をピンクに染め、にっこりと微笑んだ。 「フッ・・・元気そうだな。安心したよ」 ハインリヒは彼女の柔らかな手を取り、頬を交わした。 「あなたも・・・さあ、入って！長旅で疲れたでしょう？」 「空港まで迎えに行けなくてごめんなさい。でも、車の音が聞こえなかったけど・・・？」 フランソワーズはハインリヒを案内しながら長い廊下を進んだ。 「なに、迎えなんて必要ないさ、荷物もほとんどないし。坂の下まではタクシーを使ったが少し歩いてみたくなってな。それより・・・みんなは？」 「ええ、ちょっとお買い物に出掛けているの。でも、夕方までには帰るわ」 二人きり・・・予想していなかった状況に疲れた体が一瞬重力を忘れる。 「ね、アルベルト、ソファで休んでて！今、お茶の用意をするわ、それにお台所途中だったの」 早口でそう言うと彼女はリビングの扉を開けそのままキッチンへ小走りで向かった。 遅れてリビングへ足を踏み入れる。ハインリヒはこの部屋が好きだ。 天井まで届く書棚にはゲーテやシラー、ノヴァーリスの詩集をはじめハインリヒのお気に入りの作品がずらりと並ぶ。彼がここで好きに時間を過ごせるようにと博士達が揃えてくれたものだ。 広いリビングをゆっくり見渡した彼は、そこにそれまではなかったものを見つけ目を見張った。 入って左奥の大きな窓のそばにどっしりと構えたその姿。カーテン越しに午後の光を受け艶やかな羽を広げて休む、まるで黒いペガサス。ホフマンのグランドピアノ。 思わず足が吸い寄せられて、ハインリヒはピアノの前に腰を降ろした。 フランソワーズは薬缶に火をかけ紅茶の葉を選ぶと、オーブンの中をのぞきこんだ。香ばしく焼けはじめたりんごがとてもおいしそうな甘い匂いを漂わせている。 初めて作る彼の故郷のお菓子――アプフェル・シュトゥルーデル――食事の最後に喜ばせるつもりで、失敗しても作り直せるように早めに支度をしたのだが、こんなに甘い匂いをさせていたら彼にはもうわかってしまっているかもしれない。 驚いた顔が見たかったのに・・ちょっと残念だわ。博士達ったら時間を間違えちゃったのね・・・もう・・・アルベルトと二人で焼きたてを食べちゃおうかしら。 と突然、ポーンと相槌をうつようにピアノの音が鳴った。 ？！・・・アルベルト・・・？ 深く切ない想いを抑えきれずに、すべて吐き出すような狂おしい旋律。 その先にある何かを求めて繰り返す哀しみの螺旋。 どれだけ問いかけようとも答えは出ない。 やがて赦しを与えるように差し出される救いの手。 だが再び想いは天へ上るように堕ちていく。 この曲は・・・いつか教えてくれたわ・・・シューマンがお気に入りだった、って あなたは・・・彼女を想って弾いているのね・・・ あの頃、決して豊かとは言えなかった故郷で俺たちがしあわせでいられたのは君がいたから そして、君には俺が―― ヒルダ・・・君に聴かせるために何度でも弾き続けたこの曲 君が望むことなら何でも叶えてやりたいと思った 君がしあわせならばそれが俺のしあわせになる もしも心に小さな穴が空いたとしてもそれを埋める心のかけらをお互いが持ち合わせている はめれば溶け出し一つになるパズルのピースを 俺は君のために、君は俺のためにいくつも持っていたのに この両手にあふれる行き場のないかけらを俺はいつまた君に渡せる？ あの頃と同じ想いでは弾けないこの曲は今、どんな風に聴こえているんだ・・・ヒルダ？ 「アルベルト・・・紅茶が入ったわ」 フランソワーズの静かな声で我にかえる。 いつの間にか椅子の背もたれに体を預け目を閉じていた。 なぜ弾いたりなどしたのだろう。あんな夢を見たからか。いや、ただ懐かしかっただけだ、この音が。 「ありがとう・・・今、そっちへ・・・」 テーブルにカップを置くフランソワーズの目が潤んでいる。泣いていた？まさか君には――。 「ピアノが弾けるなんて知らなかったわ！とっても・・・素敵だった」 ソファに腰をかけハインリヒのシルバーブルーの瞳をじっと見つめる。 「ほんの子供の頃にさ・・・今じゃよく弾いていた曲ぐらいしか弾けない。それより、誰の趣味だい？こんな高級なグランドピアノなんて」 ハインリヒは紅茶のカップに手を伸ばした。 「それが・・・博士達もほとんど弾かないのよ。たまにぷーちゃさんが・・・あ、アルベルトはまだぷーちゃさんに会ったことがなかったわね、その彼女が『猫ふんじゃった』をふざけて弾いているくらいで。なのに博士達、楽譜だけはたくさん買い込んでくるの。不思議でしょ？」 口ではそう言いながらも、フランソワーズは心の中でつぶやいていた。 あなたのためかもしれないわ・・・。 「ねぇ、アルベルト・・・私にも、何か聴かせて？」 私にも・・・か、やっぱり君にはすべてお見通しってわけか。 ハインリヒはニッと笑うと、何がいい？と聞いた。 「何でも！楽譜なら書棚に揃ってるわ」 こぼれるような笑顔を咲かせるとフランソワーズはピアノから一番近い席に場所を移した。 「そうだな・・・ここにもいくつかあるようだが・・・」 ハインリヒは譜面台におかれた楽譜を手に取ると、しばらく眺め、頷いた。 「これなら、弾けそうだ・・・君にはこんな感じかな」 そう言うと、無造作に弾き始める。メロディに耳を傾けるフランソワーズの蒼い瞳が輝いた。そんな彼女に目を向け、“知ってるだろう？”と呼びかける。 “『ル・シルフィード』ね・・・” 夢見るような眼差しで遠くを見つめている。蒼い瞳の向こうで踊る儚い妖精は彼女自身だろうか、それとも・・・。 フランソワーズもまた懐かしいあの頃を思い出しているのかもしれない。 曲が終わると、彼女は瞳をきらきらさせながら拍手を送ってきた。 「ありがとう、アルベルト！まるで舞台の上にいるようだったわ！・・・もし、あなたがいやじゃなかったらもっともっと聴かせてほしいわ・・・ダメ？」 君に小さな女の子のような、そんな顔でお願いをされたら嫌とは言えないな―――ジョーも大変だ。 おっと、せっかくの二人きりの時間が台無しだ。不意にジョーの顔を思い出すなんて・・・思わず笑いが込み上げる。 「アルベルト？」 「ハハハ・・・なんでもない、もちろん君の気が済むまで弾いてあげるさ。ただし、超絶技巧なんてのは勘弁してくれよ」 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 窓から差し込むオレンジ色の光の帯が、長く君の足元まで延びている。言葉にできない思いは音符となって深い時間の海にたゆたう。それはいつしかさざ波となり、君の小さな小船を揺らすことができるだろうか。 「最後は・・・この曲を君に」 フランソワーズはそっと目を閉じた。 限りなくやさしい音色 あたたかさに包まれてるのがわかる 深い深い海の底 真珠が眠る貝のベッドもきっとそう まるで子守唄ね・・・心地よくて・・・とても好き・・・ 「サティ・・だったかしら？何ていう曲？」 「・・・・」 「アルベルト？」 「さあ・・・なんていったかな・・・今度・・・わかったら教えてくれないか？」 わかったら・・・君はどんな顔をするだろう。それを君に言わせようなんて俺も意地が悪いな・・・。 「ええ！そうね・・・ちゃんと調べておくわ。今日は、ほんとに楽しかったわ！どうもありがとう・・・お礼にディナーは、うんと腕を振るっちゃう！」 フランソワーズは立ち上がって腕まくりをした。 「お礼って、今日は俺の誕生日を祝ってくれるんじゃなかったのかい？」 苦笑したハインリヒがそう言う。 「あっ！そうだったわね！・・・フフ、ごめんなさい」 ほんのり頬を染める彼女と笑い合えるこの至福の時。この二人だけで味わえた時間が何よりのプレゼントだ。どんなプレゼントよりも―――。 音楽はどんな言葉よりも想いを伝えることができる。 ジョー、お前はその想いをどうやって伝えることができる？ 「ただいま〜！」 「フランちゃ〜ん、どこ〜？」 玄関ホールから、両博士の声がする。女３人と無口な男１人が帰ってきたようだ。 「やっと帰ってきたわ！」 フランソワーズがぱたぱたとリビングを出て行った。 やっと―――もう、ではない。君は何気なく言ったんだろうが、やっぱり軽く傷つくな。 もう、『いつも通りの研究所』に戻る時間だ。 博士達に囲まれて・・・少しうるさすぎるのもたまにはいいか。 そして、あたたかい手料理の後はシュトゥルーデルが待っているんだろう・・・フランソワーズ？ 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊ 白く細い三日月が小さく西へ傾いた頃―――両博士の書斎奥、フランソワーズの能力（ちから）も及ばない秘密の小部屋では・・・。 「きゃあああああああああ！！！！アル様カッコイイ〜〜〜〜〜！！！！！」 「この狂おしい表情が切ないわっ！！！！」 「ほわ〜〜〜〜〜・・・・」 二人の博士の大絶叫が防音壁に後から後から吸い込まれていく。 編集長などは言葉もない。よだれで水溜りができそうだ。 博士達の作戦―――それは、ピアノを弾くハインリヒをハイヴィジョンカメラに収め心行くまで堪能・・・いや、研究することだった。その為にわざわざ弾いてほしい曲の楽譜を、書棚から譜面台に移動させておいたのである。 さらに、その映像でハインリヒのホログラムまで作る気で、音源に至っては自動演奏ピアノに利用しようとしていたのであった。 「見て見て！！この角度のアル様も素敵 ！！」 「ああああっ！こっちもいい！！ちょっと今のところもう１回！！」 「ちょっと編集長！頭ジャマ！！あああ・・・このうつむき加減で、いつもより軽く前髪が落ちてる感じがイイ！」 回収した何台ものカメラ映像を片っ端から見まくっている。もちろん永久保存版DVDはとっくに作製済みである。 「フランちゃん、さらにアル様のこと見直しちゃったでしょうね〜・・・これでクラッとこないわけがないわよ！」 「うん、だってアル様を見つめるフランちゃんの目、いつもとちょっと違ったし！」 「そうそう！夕食の時なんか、おめめうるうるで、アルさま見つめてたわよね。さらにそのフランちゃんを見つめるジョーの目も、いつもと違ったけどね、ぷぷぷ」 あの茶色の瞳は、フランソワーズにずっと何かを必死に語っていた。 『最後に・・・』 「あっ！しーっ、静かに！次、最後だって・・・」 『・・・この曲を君に』 「・・・・・・！！」 「・・・・・・！！！」 博士達は驚愕の表情を浮かべ、顔を見合わせた。二人とも完全にフリーズしている。先に口を開いたのはにゃーこ博士。 「こ、こ、この曲って・・・あの曲だよね・・・杉本博士？」 「ま、ま、マジ？・・・アル様・・・本気？！！」 さっきまでの絶叫が嘘のようにささやきあう二人。 この曲は、確かに杉本博士が彼に弾いてほしいと熱望していた曲だ。だが、楽譜が最後まで手に入らず泣く泣く諦めていたものなのに・・・。完全暗譜の上、熱いものまで音に籠められている。これが生音だったらと思うと・・・。 「？ナニ？ナニ？この曲が何なんですか？杉本博士！」 編集長にはさっぱり訳がわかっていないようだ。 「サティの『Je te veux』・・・」 「『Je te veux』？・・・『君が欲しい』？！いやん！！告白ううう！」 まるで自分が告白されたかのように頬を赤らめる編集長に、にゃーこ博士がポツリとこぼした。 「浮かれてる場合じゃないわ・・・編集長。・・・この事をジョーが知ったら・・・」 ３人組が仕組んだ謀略の予想をはるかに超えた展開。 ジョーが知ったらえらいことになる・・・嫉妬の鬼と化す世界最強のサイボーグは世界を破壊するかも・・・。 「どうしよう！！」 「どうする？！」 「地球なくなっちゃうかも！」 「なくなっちゃうわよね」 「さて、どうやってジョーにばれるようにする？！」 「ここは思案のしどころね・・・。どうせなら、どーーんと落ち込んでもらわないと♪」 「やっぱりフランちゃんの口から聞くのが、ショックが大きいんじゃないかしら？」 地球滅亡の危機を、大喜びでわくわく・・・いや、心配しながら第二の作戦を練る博士達の夜は、こうして更けていった・・・。