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「シャッ、シャッ、シャッ・・・ス、スーッ、シュッ 真っ白な紙の上をすべる鉛筆の音。 途切れることなく流れるリズムが耳に心地よい。 乗ってきた証拠だ。 ００９の唇がまた苦しげに小さく動いた。 まだ声にならない。けれど、今度ははっきりと彼が何を言おうとしていたか、読み取ることができた。 シュッ。 音が止まる。 “い、い、今、フランソワーズって言ったぁ〜〜〜ん！” 杉本博士は、きゅうぅ…と身をよじり悶絶した。 お茶でも飲もうかとリビングを覗いたのは１５分ほど前。 ソファに横たわりうたた寝するジョーを見つけた時には、思わず小躍りしたものだ。 今日はなんてラッキーなんだろう。こんなに堂々と本人をながめながら研究成果を残せるなんて。 しかも、都合のよいことにデッサンを始めるとすぐにジョーは何かに魘されだした。 どんな夢を見ているのだろう。 フランソワーズの名前を呼ぶなんて・・・彼女があんなことされたり、こんなことされたりしちゃったりなんかしてるのかしら。いやあああん♪ジョーったら！！何考えてるのか知りたああい！！！ でも、ま・・・いっか。 こんな表情を生で見ながら描けるチャンスはそうそうないわ。 もう一枚くらい描いとくか、とスケッチブックをめくった時だった。 「う・・・ああっ！」 苦しげに頭を振り、ジョーが突然起き上がった。 まだ頭がぼーっとするのか一点を見つめ、ゆっくりとまばたきをすると額に手をあて深く息を吐いた。 「夢か・・・って、わぁ！す、す、杉本博士、いつからそこに？！」 「ねぇ、ジョーどんな夢だったの？すごーく魘されてたけどぉ」 博士は問いには答えず、ニヤニヤと意味ありげな笑みをうかべている。 「博士・・・起こしてくれればいいのに」 ジョーは、ため息まじりにうらめしそうな目を向けた。 いやん、そんな表情もおいしいわ。 博士はすっかり研究者の目になっている。 また、あの夢だった。 白い湯煙が立ち込める視界。サァッと風が吹きぬけた瞬間。 美しい亜麻色の髪を結い上げた君がゆっくりと振り返る。 見てはいけない。 わかっている。 ちがうんだ！見ちゃいけないっ！！ はやく目をそらさなければ。 だが、瞼を閉じることもできず、そこからはいつもスローモーション。 ゆっくりとコマ送りで振り向く亜麻色の髪の女性。それは・・・紛れもなく、ぷーちゃだった。 ああ、もう２年以上も前のことなのに、僕は今でも時々夢に見てしまう。完全にトラウマになってる。 それにしてもアイツ、フランソワーズと同じ亜麻色に髪を染めて待ち伏せるなんて、確信犯に違いない。 湯気で化粧の崩れた満面の笑顔。思い出すだけで寒気がする。 熱さとショックでのぼせた僕は、そのまま露天風呂で意識を失った。なぜか都合よくその場に居合わせた両博士が、僕を部屋まで運んでくれたという。 ・・・ってことは、も、もしかして？！ あのあと、二人が意味ありげに目配せをし合っては、「ジョーって案外・・・なのね・・・」「そうね、意外だったわね・・・」「フランちゃんも、大変よね・・・」「ねええ・・・」なあんて、こそこそしみじみ呟いていたことを思うと、もしかしないわけがない。 はあああ。 やっぱりぷーちゃの招待なんて受けるべきではなかった。 僕はフランソワーズと温泉に行けることが嬉しくて、すっかり舞い上がってしまった。 戦士としての勘を働かせるまでもなく、行くべきではなかったのだ。 張本人のぷーちゃは、あの後もモーソー病の治療だとか言って、そのまま温泉に滞在し続けているらしい。 「なぁんだ、あの時のことかぁ・・・。もうずいぶん前の話じゃないの。そうそう、あの時、ジョーが意外と・・・だってことがわかったのよね。ぐふふ♪でもさ、私はてっきりサルにこてんぱんにやられて、フランちゃんのこと考えながら魘されてた時のことを思い出してるんだと思って、わくわくしてたのに。ちぇっ、つまんないの」 ぶつぶつとひとしきり呟くと、杉本博士はにゃーこ博士に研究結果を見せに行くと言って部屋を出ていった。 あんな悪夢を見たというのに同情一つしてくれないなんて、杉本博士もひどい。 一体、僕がどんな夢を見ていたと思っていたのだろう。サルって何のことだろう？ それにしても―――今、ぷーちゃはどうしているのか。 だめだ、だめだ！ 少しでも彼女のことを考えたら、再び戻ってきてしまいそうだ。 ぷーちゃの「ぷ」の字を追い出そうと、ジョーは頭を強く振った。 ＊ 「きゃ〜〜〜！！！何これ！！博士これどうしたの？！」 白と鉛色のラフなデッサン。でも、まるで寝息が聞こえてきそうなほどだ。 にゃーこ博士は目をうるうるさせながら、眠るジョーを見つめた。 今にもチューしちゃいそうなほど近い。 「にゃーこ博士、そんなに近くて焦点あってる？」 さすがの杉本博士も余計な心配をしている。 「杉本博士どうして呼んでくれなかったのおお？！私もフランちゃんの名前を呼ぶ声、聞きたかったあああああ！！！この顔、生で見たかったのにいいいいい！！！！」 涙声で杉本博士にすがりつく。 「ご、ごめんね！いや、もうジョーが起きる前に早いとこ描いちゃわないと、と思ったもんだから。テーブルの下に放ったらかしになってたスケッチブックに手を伸ばすのがやっとで・・・。次は必ず声かけるから！！」 慌ててとりなす杉本博士に、にゃーこ博士も涙を拭いながらうなずいた。 「でも、やっぱり杉本博士天才だわ！！凄すぎる！私もがんばらないとね・・・」 とはいうものの、フランちゃんはずっとウィルドくんの腕の中だし、ジョーもうんうん唸りっぱなしだし。 ジョーってばいい加減目を覚まして、バチッと決めてくれないと。 それに、まだセリフだけで、登場してないキャラいっぱいいるし。 そもそも話の展開も、全体でいったらまだまだ半分にも到達してないしぃ！ まずい！まずいわねぇ、いくら何でもこのままじゃ。 でもね、２０歳過ぎると時が経つのが早くなるっていうじゃない？ あれ、年を追うごとにどんどん加速するのよ。ちょっと休憩してるだけであっという間に１年なんて経っちゃうんだから。怖いわ！ それにね、枯れるのよ。枯れると乾いて硬くなった土はなかなか水を吸い込んでくれないのよおお！ちょとやそっとの飴チャンじゃ効き目が足りないのよおお！ 教卓温泉で長期湯治をしている編集長もそうなのよね。 モーソー病を治すため、ネットも無い陸の孤島に身を置いて２年以上になる彼女も、干からびてすっかり年老いたという風の噂だけど。 今頃、どうしているだろう。 飴もムチもないこの状況では、研究が進まないのもやむを得ない。 ああ、どうしたら！ ああ・・・ジョー、助けて！ 「にゃーこ博士！・・・だいじょぶ〜？」 ハッと我に帰る。 杉本博士が目の前で手を振っている。いけない、いけない。グチまでモーソー気味だわ。 こまめに星祭りチャットみたいな機会を作って刺激を求めなきゃだめかしら・・・。 にゃーこ博士は腕を組んで唸った。 と、そこへ。 「ただいまー」 「ただいまー」 フランソワーズのかわいらしい声がした。バレエのレッスンから戻ったようだ。 が、しかし。フランソワーズの声とまったくハモれてないアルトが聞こえたような気がしたのは気のせいか。 まさか・・・？ 二人の博士は、顔を見合わせリビングへ急いだ。 「・・・ジョー？・・・ああ、ジョー！」 不意に名前を呼ばれ、ジョーは固まった。 嫌な予感がする。 ゆっくりと振り向くと、そこには・・・。 「ジョーーー！！会いたかったーーー！！」 何か大きな塊がジョーに体当たりを食らわせた。 なんと！！ ぷーちゃ編集長が帰ってきてしまった。 以前よりでかくなり、いや、確実に太くなって、全身からたくましさがにじみでている。 まるで金縛りにあったように、呆然と見つめているジョーに抱きつくと、ぷーちゃはここぞとばかり一気にまくしたてた。 「ねねねね、どう？どう？今の、どうだった？『・・・ジョー？・・・ああ、ジョー！』って。一回言ってみたかったのよーー！あの『ジョー』の前の『・・・』が難しいのよね！いくら練習してもフランちゃんみたいな想いがうまく出せないのよー。でも、なかなかだったでしょ？いつも再現ドラマしてるだけあるでしょ！最近は、ウィルドくんとのコップのシーンもお気に入りなのよね。ほら、フランちゃんが目が見えないってことに気づくあの場面も再現し甲斐があるのよ〜。あ、いいの、いいの。心配しなくても、フランちゃんとはさっき研究所に向かう途中で出会って熱い抱擁をかわしたから。ネ〜、フランちゃん♪あ、これお土産ね」 ぷーちゃは、しっぽり饅頭を滑らかなラインを描くフランソワーズの美しい胸にぐい、と押し付けた。 「え、ええ・・」 ほら、フランソワーズも困ってるじゃないか。 しかし―――僕がチラッとでもぷーちゃのことを思い出してしまったために、こいつは戻ってきてしまったのか。 だとしたら、僕はなんてことを・・・！ もう取り返しがつかない。 「きゃああああ！！！編集長――！どうしたの？！もう具合はいいの？」 リビングへ駆け込んできた博士たちも、目を丸くして驚いている。 「にゃーこ博士！杉本博士！お会いしたかったですーーーー！嬉しい！！体はもうすっかり。・・・と、言うより一度干からびたんですけどね。また再発しちゃったみたいなんです。だはは！」 ぷーちゃは頭をかきかき笑い飛ばした。 「再発したって、じゃあまた？」 「はい！干からびるのもいくとこまでいくと、また潤うんですよ。どうやら。たぶんモーソー病患者はみんなそうだと思いますよ。この臨床結果をふまえて、さあ博士たち！患者さんたちのためにまた原稿お願いしますね！！またムチがないからってタラタラしてたんでしょー。だめですよ！これからはしっかりお尻ぺんぺんしますからね！でね、でね、にゃーこ博士に直接聞きたいことがあって大急ぎで帰ってきたんです。フランちゃんの部屋のベッドと窓の位置関係をはっきりさせておきたかったんですよ！それによって、全然モーソー具合が変わっちゃうんで。あとで、研究室におじゃましますから、詳しくお願いしますね！」 しゃべるだけしゃべると、編集長は、すっかり埃が積もり開かずの間となった部屋を片付けてくる、とそそくさとリビングを出て行った。 まさにシーズンはいえ、でかい台風が上陸してしまった。 一日も早く通過してほしい・・・。 切実な思いで天井を仰ぐジョーであった。 |