| ６ 窓の向こう、煌々と空と海を照らしていた月が、ゆっくりと雲に隠れた。 闇の力が増すと、空と融け合ってしまった水平線へ向かって、幾筋も星が流れるのが見えた。 天の川のそばに、ルビーのように明るく輝く星がひとつ。 あの瞬きは、長い長い時間を経て、ようやく今届いたのね。 限りのある命を生きている私たちには、想像もできないほど昔に生まれ、遥か遠くから旅してきた光。 星々の営みの前では、人の歴史などなんてちっぽけなんだろう。 ２００年後の世界に、私たちの戦いの痕跡はなく、彼らは今の時代のサイボーグの存在も、ＢＧのことも知らなかった。 たまたま―――もしかしたら、それは必然だったのかもしれないけれど―――“彼”が、ジョーと自分の存在との間に、かすかな、でも特別な、響き合いのようなものを感じなかったら、何もわからないまま、お互いにもっと傷つけ合っていたかもしれない。 時の流れは、人々が笑ったり泣いたり、愛し合ったり戦ったりして懸命に生きている毎日を、いつか、みんなまとめて呑み込んでしまう。 私たちが時の重さに押しつぶされることはあっても、時の流れは私たちの思いなどお構いなしだ。 誰かの記憶の中に残っていない限り、ひとくくりの、ただの“過去”になってしまう。 私たちのことも、ＢＧのことも、全部。 人の一生なんて、長い長い時の流れの中の、ほんのわずか一瞬にすぎない。 いつかみんな消えていく運命なのに、憎みあったり殺し合ったりばかりしているなんて……どうして？ でも―――それでも私は、人間の未来を、幸せを夢見ることのできる未来をつくることができる、と信じていたいわ。 でなければ……。 「どうしたんだい？大丈夫？」 ジョーの心配そうな声にはっとする。いつの間にか、頬を涙が伝い落ちていた。 「……淋しいの……」 予想もしなかった言葉が口をついて出た。 「フランソワーズ、どうして？」 ジョーは心底びっくりしたように腕の中の私を見つめた。 そんな顔しないで。 私だってどうしてそんなことを言ったのかわからない。 「こうしているのに？」 人工心臓のリズムが少し乱れている。 ジョーがこんなに驚くなんて。 私はそのことにむしろびっくりして、言い訳を慌てて考えた。 「ちょっとそう言ってみたかっただけ……」 どうして―――淋しいのかしら？こうしているのに？ 「……あなたがそばにいるからよ」 そうよ、こうしているから―――。 「どういうこと？」 またジョーの心臓がひとつ跳ねた。 「あなたが……優しいから」 彼は本当に困った顔をして、私の頬を両手で包み、涙の痕をぬぐった。 そんな眼をしないで。そんなつもりじゃなかったの。ただ……。 「今、こんなに幸せなのに……もしあなたがいなくなったらどうしようって思ったら、不安で……急に淋しくなったの。それだけよ」 なあんだ、また君の心配症か、と彼はようやくほっとしたような微笑を浮かべた。 「大丈夫さ」 「そう？」 「ぼくはいなくなったりしないから」 「本当に？」 「ちぇ、信用ないんだな」 「ううん、もちろん信じてるわ。でも……」 柔らかな光を湛えたジョーの瞳をしばらく見つめ、今日初めて、私は自分から彼にキスをした。 しばらくしてジョーはそっと唇を離すと、いたずらっ子のような眼をして、耳元で囁いた。 「あんなにびっくりさせられたのに、キスだけかい？」 「もう……ダメよ」 何も言わず、ジョーは行動で私の言葉を拒絶した。 「お願い、もう……」 「まだ、淋しい？」 うなじに熱い吐息が襲いかかる。 強く、強く抱きしめられ、私はもう目も開けていられなくて、肩で荒い息をつきながら、ただ首を横に振った。 「フランソワーズ……！」 きらめく時の中で、ジョーは何度も私の名前を叫んだ。 髪を愛おしげに撫で、指を絡め、何度もキスをして私を強く抱きしめた。 私も彼の名前を何度も呼んだ。 大きな波が引いた後の余韻の中で、私は、また“彼”のことを考えていた。 そして、そのまま時を遡り、幼い日のジョーの姿を思い浮かべていた。 あの頃のジョーは、孤独の中で何を信じていたのかしら。 長いトンネルの先にある未来に、どんな光を見ていたの？ あなたが独りぼっちだった時間より長く、私たちが一緒に過ごせたら、あなたが凍らせてきた淋しさを、少しでも融かすことができるかしら？ でも―――それだけの時間が、本当に私に与えられているかしら？ 時間―――。 私たちの時間は、ある日突然、一方的に終りを告げられる。きっと、私たちの望まない形で。 私は間に合うのかしら？ それよりも―――もしかしたら、その前に、彼は誰かの深く果てしない孤独と悲しみの裂け目に吸い込まれてしまうかもしれない。 彼自身も気がつかないうちに。何の意識もしないうちに。 そして私の前から永遠に姿を消してしまうかもしれない。 ジョーが抱えてきた孤独の記憶は、いつも誰かの淋しさや悲しみに優しく共鳴してしまうから。 そうしたら、私は―――。 「また何を考えこんでるんだい？……今度は何の心配？」 屈託なく笑ったジョーの口から、ぎこちない、けれど私には懐かしい響きの言葉が飛び出した。 今度は私の心臓がひとつ跳ねた。 「どうしたの、ジョー？いったい、どういう風の吹きまわし？」 私は目を丸くして彼を見上げた。 やっぱり変かな、とジョーは照れたように頭をかいた。 その様子に、私は数時間前の彼らとの会話を思い出した。 「誰の入れ知恵なの？」 「さっき張々湖が、一生のお願いだから君をそう呼んでくれって。君のご機嫌を直すには、『ロマンチック路線しかないアル』なんて言ってたよ」 予想通りね。でもそれは他の誰かに頼まれて言うような言葉じゃないわ。 ちっともロマンチックじゃないんだから。 「あの３人、よほど何か君を怒らせることをしたのかい？」 「そうじゃないけど……」 調子に乗った3人の悪ふざけを思い出し、そしてまた今ここに彼らが乱入してきたような気がして、私は思わず唇を尖らせた。 「フランソワーズ…？」 頬っぺが赤くなってるよ、とジョーは笑った。 「まだ怒ってるのかい？」 「いやなジョー…。怒ってなんかないわ。あなたも無理してそんな呼び方しなくてよかったのに」 「無理なんかしてないけどね。でもフランス語の発音はやっぱり難しいや」 屈託のない微笑を浮かべているジョーに、私は澄ました顔で言った。 「じゃあ、日本語で言ってみたら？」 「日本語には、そんな言葉はないよ」 嘘ばっかり、と私は思わず笑った。 「少なくとも、ぼくは今まで一度も使ったことないからね」 「ほんとかしら？でもどっちにしても……」 「フランソワーズ……」 「んっ、もう、ダメよ……イヤ」 彼の瞳に吸い込まれていく。 「やめて……ジョーったら……赤ちゃんみたいだわ」 「本当にダメかい？」 からかうように夜風が私たちの体に纏わりついた。 と、その時ようやく気がついた。 遠慮がちに漂って来る美味しそうな匂い。 ダイニングでしょんぼりしている３人の姿が目に浮かんだ。 「フランソワーズ……？」 私はわざと小さく肩をすくめ、首を横に振った。 ジョーも頷き、私たちは顔を見合せて微笑んだ。 ―――愛しい人。 そう耳元で囁いたジョーの栗色の髪を、私は胸に強く抱きしめた。 |
quoted from "A Sound of Thunder" by Ray Bradbury 1952 (ハヤカワ文庫『太陽の黄金の林檎』 小笠原豊樹訳 参照） |